ぼくはどんな文章を書くことにやりがいを見いだしているのか

他者に宛てたものを書くことのおもしろさ、そしてやりがいをかみしめている。ごく簡単なメモ書きから、仕事の報告書、心をこめた礼状、じっくり取り組んだ課題のエッセイ……。一方でこのブログで書くのはとてもしんどく感じてしまう。どうして同じ「書く」ことであるのにも関わらず「他者宛」と「ブログ」ではこれだけの差が開いてしまうのか。

 

これまでこのブログで投下してきたエントリの99%は自己完結・自己目的の文章であった。誰かに読んでもらうために書くのではなく、自身の心の整理のために書くのである。(1)過去に自身に起こったことが現在のわたしの自我に及ぼす、名状しがたい関係になんとか試みの説明をランダムな角度でつけ (2)その蓄積を改めて吟味し、「だいたいこんな感じやろ」という自分自身に関する理論をつくる……それによって(3)深い自己理解、「私とはこのような人間だ」という確信を強くすることができるだろう、というのがブログを立ち上げた意図であった。

 

しかしながら、こういった作業をたったひとりでやりとげるのはきわめて困難なことだということを認めねばなるまい。というのも実際にぼくができているのは、高く見積もっても(1)の「過去に自身に起こったことが現在のわたしの自我に及ぼす、名状しがたい関係になんとか試みの説明をランダムな角度でつけ」ることしかできていない。それも厳密には、現在感じている苦しみを安直に――試論らしい試論、もっともらしい説明もなにもなく――ただ投げやりに過去のせいにしてみているだけ……と書いている最中の自分自身がそう感じてむなしくなるようなものばかりである。我流でやる自己分析はなかなかうまくいかない。うまくいかないのであればもっと時間と労力をかけて精進しよう……という気も起こらない。書いて、書きっぱなし。もうほとんど振り返らない。そんな有様だ。

 

ところが、必要性を伴った他者宛の文章を書くことは本当に充実感をもたらしてくれる。それは"ことばのつかいかたこだわりをもつ私"の興味(自己志向な欲求)と、"これをするのは他者のためである"という目的意識(他者志向の欲求)が両立しているからだと思う。これは現在ぼくが読みかけているGritにおいても指摘されていることだが、自己志向並びに他者志向の欲求を同時に満たしてくれる仕事は、いずれかかのみを満たしてくれる仕事よりも、貫徹しやすい。それはまあ、「この仕事が好きだし、人の役にも立っている」と感じていれば、やり遂げようと自然と思えるものだという主張は、感覚的にはほぼ自明の理であろう。

 

結局「人のため」と「ことばへのこだわり」の両者が結びついているからこそ「他者宛の文章」は大抵充実感をもって書けるのだと思う。

 

そしてこれを敷衍してみると、同じブログで書く文章でも、自己完結・自己目的であることに執着せず、このブログを書き続けることで「人のためにもなっている」という感覚をもてるようにすることが、エントリを生き生きとうみだすための鍵であろう。幸いにも、自分ではしょうもないと思っていたぼくの文章を「おもしろい」と言ってくれる人はいる。そのうれしい、ありがたい言葉を、自分勝手に感じるむなしさ、アホらしさで薄れさせてしまってはいけない。まず単にもったいないし、それ以上に、実はそう言ってくれる人の心をまっすぐそのままに受け取り損ねているということを意味しているからだ。

 

ぼくはそうして親しい人が自分にかけてくれることばを大切にしないような人間か?

 

否、決してそうではない。


このごろはかなり忙しいから実現できるかどうかはわからないが、少なくともぼくはこのブログをそうして「読んでくれる誰かのため」にも書いていくことにする決意だけはしておく。

 

Grit: Why passion and resilience are the secrets to success

Grit: Why passion and resilience are the secrets to success

原著。ぼくはこっちを読んでいておもしろいと感じる。 
 
 
やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

 

こっちは邦訳版。ぼくは未読。個人的には帯の宣伝文句が気に入らない。「最強」は百歩譲ってよしとしても、「最速」のメソッドでは決してないので。カスタマーレビューを見ているとだいたいそのせいで低評価をつけているようだ。もったいないし、このキャッチコピーは本当に中身を読んだ人が書いたものなのか疑問をもつ。