春画展行ってきたぞ

前回は昼で1時間待ちだと言われて断念したので、今回は朝から出発して開場時間前から並ぶ作戦に出た。今朝早くから花見にはあいにくの天気だったので、その分春画展もすいているだろうと高をくくって到着してみると……さすがに1時間待ちではなかったが、開場前から45分待ち列形成が始まっており、日本人の愚かさに驚きあきれた(お前が言うな)。

 

以下春画関連の性的な話題からのオエーッ自意識。

 

 

 

個人的に気になったのは、腋毛が描かれる女性がそこそこあったこと。現代的には女性の腋毛はあまり歓迎されていないよう*1だが、少なくとも江戸時代までは官能を邪魔する要素とは見なされていなかったようである。そしていわゆるパイパンは見た限りではひとりもいなかった。どうやらエロには陰毛が必須らしい。このあたりの感覚はまだ現代にも残っていそうだ。

 

ところで、欧米系の文化では全剃が基本であると聞いたことがある。この間NZへ行ったメンバーのひとりは「こっちの文化に合わせなきゃと思って」といって首より下の体毛を尽く取り除いてきていた。

 

しかし、翻って日本のことを考えてみると、不思議かな、どうして陰毛はよくて腋毛はダメなのか。あるいは四肢や胸といった陰毛以外の他の部位もダメなのだろうか。ほかはきれいに剃るのに、股間の毛は揃えこそすれ大抵の場合わざわざいくらか残す。そうした「股間」と「その他」との間のコントラストを考えれば、現代日本人が大人の股間へ抱く複雑な意識(あるいは執着)が自然と浮かび上がる。

 

この「股間だけは例外」という不均一さに自分は抵抗を感じている。陰毛ありなら全部ありにしようや、と言いたくなる。子どもの体から大人の体への体毛における変化を、股間以外から奪って、すべて股間に託してしまうことに、すっきりしないというか、モニョっとした感じを覚える。そしてこの股間への意識を執着ととらえると、結構息苦しい。いっそその意識を体全体にばらまきたい、全身で変化を受け容れたいと思ってしまう。

 

まーた自意識に話が移ってきてしんどくなってきた。体の変化を自分ひとりの心で引き受けてしまったしんどさがぶり返しそう。日本人の心の沼をのぞくと、自分の心の沼に行き当たってしまうから困るなあもう。

*1:残念なことである