戦時中でも空襲があっても笑いあう日だってあった

友人に誘われるままに『この世界の片隅に』を見た。ぼくはこの映画を見て学部1年生のときに一般教養として受けた「民俗学1」の講義を思い出した。普段あまり映画を観ないが、よい機会なので拙いながらも感想を書いてみる。ネタバレはほとんどないと思うが、念のため警告はしたこととする

 

民俗学とは、一般教養レベルの知識でおおざっぱに言ってしまえば各時代各地域における「普通の人々の普通の暮らし」をとらえようとする学問だ。人は「当たり前の日常」などいちいち意識したり、ましてや記録しようとはしない。だから民俗学の研究においては(おそらく歴史や文学などとは違う方向で)データ収集から工夫や苦労を強いられる*1。このデータ収集の一手法として当人たちへの聞き取り調査を実施し、彼らの「生活史」(自分史)を執筆するというものがある。ぼくはこれを期末のレポート課題として体験した。

 

 生活史とは

「現在にいたるまでに個人がたどってきた経歴を、一定の項目(例えば、家族歴、学歴、職歴など)を含めた上で、本人や聴取者により作成された自分史のこと。個人は、自らの社会的生活を、客観的な制度と主観的な体験との間の相互作用として経験するが、その相互作用の過程を、個人の側から記述したものをいう」

(三田宗介他編1988『社会学事典』弘文堂)

 

 

生活史は語り手・聞き手双方の興味・関心によって、いかようにも記述されうるものであり、決まった型はない。かといって好き勝手に何をどう書いてもよいというわけでもない。「民俗学1」の授業では、話者の体験の重点を置くこと(些末な情報で書くべきことを埋もれさせない)を意識しつつ記述者の感情表現は控え、感動に値した事実を丁寧に描くこと、そして場所や時代(日付)といった基本的な事項を書き漏らさないことの重要さが再三強調されていた。

 

祖母からは、ちょっとだけ呉戦災の話は聞いたことがあった。
でも私は、あまりそれをまじめに聞いてこなかった。
祖母は亡くなって聞くことはできない。
そこらへんの後悔の念はあった。


祖父母とか、話をできなくなってしまった人々と、描くことで対話をしているような、そういう人たちのことを追いかけるように丁寧に描ければいいなと思った。

映画「この世界の片隅に」 こめられた思い|特集ダイジェスト|NHKニュース おはよう日本

 

 

この世界の片隅に』という作品は、結果的に上記のルールをすべて満たしているように思う。「感情表現が控えてあるか」「書く(描く)べき重点を意識しているか」といった部分は作品の表現に抑制がきいていることや原作者が多くの資料に当たったり精力的に聞き込み調査を行ったという背景事情からそう感じる。キャラの感情表現などは必要十分になされている。「楠公飯」のくだりなどはレシピまできちんと語らせているあたり、作者たちのこだわりを感じる。きっと資料を読んで「おもしろい」と感じたのだろう。基本事項の書き漏らしがないことについてはもっと明白だ。">作品中にはシーンが切り替わるたびにきちんと日付が映し出される。また主人公すずの出身地が「広島市」であって、メインの舞台が「呉」であり、ある事情で「下関」を訪れていたということもきちんと作中でわかるようになっている。また、作者たちは「歴史的客観的事実」ばかりにこだわらず、個人の「主観的な体験」を大切にしているということが、冒頭の「人さらい」のエピソードをはじめとする子ども時代の数々の超現実的なシーンの描写から読み取れる。長くなってしまったが、要するに原作者が聞き取ったこと調べたことを過不足なく忠実に作品の中に再現して残しておきたいという思いが強く反映された作品に仕上がっているのだ。

 

戦争は総括すれば惨劇だが、戦時中の生活のあらゆる瞬間が悲しみだけでできあがっているわけじゃない。原作者および制作チームは戦時中の生活を決して「惨劇」などという安易なテーマに沿って都合よく切り貼りしようとせず、生の声と真摯に向き合い、文章の代わりに絵とセリフで「記述」した。そうしてできあがった作品はアニメ映画という形でまとめられた民俗資料なのだといいたくなる。人はみないずれ死ぬ。戦争を経験し、生き延びた世代も同様に。そうしたときにナマの声を閉じ込めた『この世界の片隅に』は戦時中の人々の暮らしを緻密に追体験させてくれる貴重なマテリアルとしても機能しはじめるにちがいない。