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数学的優越感レースを棄権したい

内観 日記

scribbling.hatenablog.com

 

こちらのエントリに応援コメントをいただきました。ありがとうございます*1

 

 

 

 

自分よりも「圧倒的にできそう」な人が目の前に現れて、しかもなんか他人(特に「格下」)に興味なさげな雰囲気出してて、取っつきにくそうで、自分なんかどうせ相手にしてもらえへんやろなって感じるとき。まあ、おるんやけどな、実際そういう人が。そういう人がいると、なんか自分なんか無価値な感じがしてきてさ。

「きみが勉強する理由」は、たったそれだけでいいのかい? - The Loving Dead

 

できない人を見下すような発言をする人はいる。それは、友人同士の居酒屋会話のような感覚で愚痴ったものがたまたまぼくの耳に入ってきただけかも知れないし、あるいはそれが彼らのいらだちや不満を(ツイッター芸人やFX芸人などのような)「知ったかぶり芸人」、すなわちエンターテイメントとして昇華することに主眼を置いた行為なのかも知れません。彼らは彼らで「できてしまう人」の居心地の悪さをもてあましているのでしょう。この問題については(存在しても)彼らの領分で、いまの自分が手を出しても仕方がない。

 

むしろ避けて通れないのはぼく自身の居心地の悪さであり、ものの見方の問題です。できそうな人に相手にされなそうという視点から自分自身に対して無価値感を抱いてしまっている。言い換えると、自分自身の価値の意識が専攻分野における能力に大きく引きずられてしまっている。ここに数学をやりながら感じる苦しさの原因があるとみています。

 

ぼくはもともと数学が得意ではありません。中学生のころの数学は赤点とまではいいませんが、平均以下をとった時期もあります。それも私立の優秀な進学校でではなく、普通の地方公立中学校で*2。数学に色気を出したのは、通っていた塾と高校の数学の先生がたに出会ってからです。あの先生方がいなければ、ぼくの数学観は「おもしろみのない数値計算」どまりだったと思います。

 

ところで中学校の先生方の名誉のために申し添えておくと、当時のぼくは思春期特有の多感な時期にあったりだとか軽い総スカンを食らっていたりだとか好きな子の誕生日に貝割れ大根を贈呈する残念ぶりを発揮するのに必死だったりとかで、とにかく勉学に重きを置いた学校生活を送っていたとは言いがたいのが実際です。さらに地方公立中学に集まる(必ずしも勉強に関心を置いていない)多種多様な生徒たちに等しく義務教育の要請する最低限の水準をクリアしてもらうことを優先させなければならないといった事情もあるでしょう。したがって中学時代の先生方に教師としての技量に責任を押しつけるつもりはありませんし、筋も悪い。

 

高校では学校でいちばん数学ができたというわけではありませんが、それでも取り組んでいて楽しかった。新しい概念が導入されて世界が広がったり、いまでは瞬殺できそうな問題にも一生懸命知恵を振り絞って解けたり解けなかったり、友達と教えあったりして、とても生き生きとしていました。当時はそれを「数学が約束する報酬」だと思っていました。数学にきちんと取り組みさえすれば、そのようにして満たされ報われるのだと。

 

しかし、高校生活の中盤から人生で初めての彼女とつきあい初めて、楽しい高校数学生活の雲行きがあやしくなりました。彼女の不遇さと不安定さを支えることにとりつかれるようになったのです。数学に取り組むことよりも、自分を愛し(ていると主張し)ている人を助けることに、強く引き込まれていきました。高校生にはおよそ不釣り合いなその関係は当然のごとく破綻しますが、そのときには周囲の人間関係もほぼ消滅し、そもそも生きて存在し続けること自体が苦痛であるようなような状態まで陥ったりしており、自分でいうのもなんですが、喪失感は筆舌に尽くしがたいものでした。

 

そのときからだと思うのですが、ぼくにとって数学はもはや単にやって楽しいだけのものではなく、下手をすると自分がひどく傷つくかも知れないという、諸刃の剣になってしまっています。数学だけではなく、自分が真剣に取り組むあらゆるフィールドにおいて。そして数学を専攻する段になって「数学が約束する報酬」は、実は「失敗しても自分を許せるだけの心の余裕」あるいは「わからない状態を楽しめるだけの元気」といった心的リソースを前提としたものだったことに思い至るのです。

 

いまこの状況で、数学における「優越感レース」に乗り続けるのは、得策とは言えません。ぼくにとっては、数学を楽しめるような心的状態を回復することの方が大切で、そのためには「優越感レース」を棄権する必要があるのですが、棄権するにも「どう思われたってかまわない、自分は自分のやるべきことをやるんだ」と振り切るだけの覚悟、いわば"キャンセル料"がかかるのです。

 

今回いただいた応援コメントは、(真心をお金に譬える不作法をお許しいただくならば)そのキャンセル料にあてることができそうです。他にも自分が得意なことをやったり、いろんな人といろんな話をして人情を感じたりして、ああ~~早くこんな空想上のレースから抜け出したいぜ。

 

心的リソース、ためて待つぜ。

*1:別段告知をしていたわけではないのですが、コメント欄はとりあえず私信として受け取ることにしていますので、コメントそのものは直接公開せずにお話させていただきます……のつもりが設定ミスで自動公開されていました

*2:聞くところによると進度に大きな差があり、体感でおおよそ2, 3年くらいの開きがあるのではないでしょうか