「きみが勉強する理由」は、たったそれだけでいいのかい?

学校で開催された就職説明会に参加してきた。もともとは「豪華食事」を目的にしてたんやけど、各企業の説明を聞くうちに、いまやっている勉強が案外先へつながっていくかもしれへんな~という可能性がほの見えた。企業での研究職というのは、徹底した成果主義の厳しい側面もある一方で、自分に合ったはたらき方がしやすいもんらしい。これまで勉強をやる理由として"没入感"や"達成感"みたいな、その中に目標を見いだして続けてたようなところがあるんやけど、思えばこれは単に勉強が「将来につながる」という可能性を知らんかっただけの話かもわからん*1

 

それにしても、勉強っていつでも楽しいものやと感じられるわけやないんよな。それを認めるのはちょーっと後ろめたい感じもするけどさ。ほんで、どういうときに楽しくなくなってしまうかっていうと、自分よりも「圧倒的にできそう」な人が目の前に現れて、しかもなんか他人(特に「格下」)に興味なさげな雰囲気出してて、取っつきにくそうで、自分なんかどうせ相手にしてもらえへんやろなって感じるとき。まあ、おるんやけどな、実際そういう人が。そういう人がいると、なんか自分なんか無価値な感じがしてきてさ。「そんなん、アホやん、そんなんで卑屈になることないやん」って、よそから見てたらそう思うのは知ってるし、そういう心の声も聞こえてくる。

 

そんな精神状態では、例えば何かひとつ学んだとしても、「ああ、これだから数学は楽しいな」となるんじゃなくて、「あーあ、ぼく以外みーんなこんなこと地球が生まれる前から知ってたんやろ」なんてふさぎ込んだりして、"新しく理解することのよろこび"を矮小化してしまう。いや、さらにいうとそれだけやなくて、"自分の学習の遅さ"という問題にすり替えてさえしてしまってる。

 

今回の「いまやってる勉強が将来につながるかも知れん」という気づきは、さらに「勉強のインセンティブには、もっともっと広く豊かに持ちうるもんなんかも知れん」という類推をもたらしてくれた。"没入感"を楽しみたくても、どうしてもいろいろ懸念して気が散ってしまう時期があれば、"達成感"を味わうつもりで取り組んだら逆に"挫折感"にやられてしまったという事故もある。そんなときに「でもこれは将来につながるから」「とりあえず卒業はしないといけないから」「たとえいま全部消化できなくても少しは院試合格に資するところはある」などという動機を原動力に変えることができれば、もう一踏ん張りできることもあるんちゃうかなって思う。

*1:学歴は"就活"においては"看板"としてある程度の効力を持ちうることは知っていたが、「じゃあ実際に大学や大学院で身につけた内容がいかせる場が存在するのか」という点については8割方悲観していた