PCやめました

1月24日をもってPC断ちを決意した。PCにだらだらと向かう習慣が生活リズムの崩壊や学業面の遅れの主因であり、このままでは進路や心身の健康に深刻な影響を残す可能性が高いと判断したためである。

 

ルールは「自分のPCを使わない」こと。自分が所有しているWindows 7でなければ、例えばネカフェや友達のものを使わせてもらってもよく、またスマホなどでインターネットに接続することも可としている。ただし例外として、バイトの報告書など仕事で必要な場合においてはその目的に限って使用してもよい。

 

最近はPCでニコニコ動画YouTubeNetflixでまだ見ていない動画をあさるばかりで、その根性は「ソースを箸でさらえようとする意地」に通底するものがあったように感じる。労の割に求めるところの刺激は少なく、その不足を補おうと躍起になっていろいろな検索ワードを試す。

 

PCから離れたといってもいまのところ特に支障はなく*1、むしろあらゆる体験が以前よりもみずみずしく、かなり充実している。まずPCと引き換えに12時間(!)の空きを獲得する。PCが行動の選択肢から除外されているので、代替案としてざっと思いつくのはおおよそ

  • 勉強する
  • 外へ運動しに出かける
  • 手近にある本を読む
  • 友達を誘って遊びに出かける(夕方まで限定)
  • 心にあることを適当に紙に書き出してみる(夜中にやる)

といったところ。そして実際にやってみると、これらのどれもが予想を超えて新鮮なのである。PCに触っていたときからやっていたことであるにもかかわらず。
「勉強会の発表の準備がこんなに楽しいとは」
「走るとこんなに頭が痺れるとは」
「前からあったうつの認知療法の本、普通に元気な人にも応用できそうなものも多いな」


こうしたあたりまえでも新鮮な気づきは、PCに囚われていた精神から、恩赦を与えたぼくへの贈り物なのだと思いたい。歯の浮きそうな表現だなあ。

 

*1:睡眠サイクルは相変わらずだが、特別悪化したわけではない

やぎはかわいい。年末に博多の海の中道海浜公園でやぎとであってからYouTubeでやぎ動画をあさる癖がついた。 

 

 

昨日友人の勉強に一区切りついたお祝いをしていたところ、つい飲み食いしすぎて吐いた。ここ最近飲んで吐くということが増えてきた。「老化は一時的な状態異常が常態化することによって進む」というツイートをみかけて(真偽のほどはともかく)ちょびっと危機感をあおられる。ただ祖父が飲んだくれだったことを思うと、酒を飲んで気持ち悪くなるような自分はアルコールで身を持ち崩すようなことはないだろう。

 

トイレから戻って、残していた水を口全体が潤うようにして飲んだ。思ったより酸味があって「さっきは酔っ払ってて檸檬入ってたのに気づかなかったのかな」と思った瞬間に、口の中がひりひりしはじめた。タバスコだった。ぼくが離席している間にいたずらで混ぜたらしい。それがもうおかしくて笑いまくっていた。

 

今度機会を見てやり返すことにする*1

*1:倍返しだ!!

元旦以降しばらくだらだらと脳によくなさそうな過ごし方をしていた。生活は不規則で、頭がいまいちはたらかない。体脂肪の増加を文字通り肌で感じる(口角にかかる肉圧が高くなっているから)。部屋の空気はよどんでいる……。

 

後退・停滞ばかりでなく前進・変化もある。部屋の隅の洗濯かごに詰め込まれていた種々の書籍を整理し、その周辺の不要品を処分した。洗濯かごはそのままなので動けるスペースはさほど広がっていないが、見た目は明らかに改善した。

 

早くあたたかい季節になってほしい。朝に目が覚め、昼は勉強し、夕方にバスを釣り、夜は寝る。こんな生活リズムを手に入れたい。のろい筆で日記をつけているいまもなお夜は更けつつある。

おじさんというガワをかぶりながら生きていくことは考えてみると結構難しそうである。実際に身近のおじさんたちやブロゴスフィアのおじさんたちを見ていても、中年男性であるという事実を理由にそわそわしてまるで居場所のないかのように振る舞う。話を聞くに、何気ないはずの一挙手一投足が周囲の目には重たい意味を帯びて見えたり、ときには風船にじゃれようとしたハリネズミのごとく相手に思わぬダメージを与えてしまっていたりするものらしい。

 

また、「悪いことばかりじゃないよ、自分はおじさん好きだよ」という主張も傾聴してみると、おじさんのガワが連想させるファンタジーを愛し、実在しないおじさん像を崇拝しているだけであることも多い。何かを好きでいることはまったく結構だが、残念ながら実在するおじさんの居場所拡大の足しにはなりそうもない。

 

年齢を重ねるにつれて居場所が小さくなっていくおじさんたちは、いったいどうやって生きているのだろうか。時々思いやっては不安になる。「存在しないことではじめて受け容れられる(かもしれない)存在」ってなかなか難しい。気の置けない友人や配偶者といった自己愛のオアシスを見つけられていればそれでもなんとかやっていけるかも知れないが、そうでなければ自分で心の日銭を稼いでしのいでいかなければならない。

 

ぼくはおじさんが好きだと思っているのだけれど、上述のようなことを考え合わせると、その「好き」の裏側に「未来の自分が少しでも楽に存在できるように」という利己的な側面が浮かび上がるような気もする。

 

それでもぼくは「誰でもいいから抱きしめられたいおじさん」を抱きしめるよ。そんな窮屈そうにせんでもええんやで。ぎゅっ。

福岡さいっぺん来んとねいうけん

行ってきた。

 

山陽新幹線の車中より、福岡行きを思いつくままに振り返る。

 

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テレビでみた博多駅前の陥没はすっかり修復されており、それと知らなければ何があったかわからないほどだった。もともと地下鉄だか地下街だかの延伸工事の最中だったらしいので、完成すればますます便利で賑やかになるだろう。

 

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海の中道でレンタサイクルして公園内を走り回った。着込み方が甘くてずっと寒さに震えていたが、体を動かす楽しみがまさってたっぷり3時間屋外にいた。公園には動物園エリアが設けられており、リスザルのかわいらしさに驚愕した。やはり旅行には能動的なレクリエーションがよく合う。

 

博多でどうしても試したかったのが屋台。天神周辺の歩道は特別に広く舗装されていて、屋台の文化が行政に及ぼす影響を思わせる。今回は対洲軒というお店で焼きラーメンと瓶ビールをいただいた。オーダーしたメニューを待っている間、隣席に座っていたアジア系の女性観光客*1に英語で写真撮影を頼まれた。こちらが面食らいながら大したことのない英語で承諾すると、他のお客さんたちからほめそやされて恐縮した。その女性と他の地元民と思われる客とはその場で知り合ったようだった。「Facebookに写真をあげるときは『ハッシュタグ対洲軒』を忘れないで」を博多弁から英語に通訳したが、果たしてうまく伝わっていただろうか。

 

たった3日間の滞在だったがひとまず水炊き、もつ鍋、豚骨ラーメン、ひとくち餃子はひととおり味わうことができた。

 

太宰府天満宮へ参拝した。おみくじを引いたら気分がよくなった。その後しばらく並んでかさの家の焼きたての梅ヶ枝餅をたべた。焼きたてだからか、餅なのにサクッとした食感でおもしろかった。

 

今回はじめて九州に上陸した。とてもよかったし、長崎や鹿児島など福岡以外にもたくさん行きたいところはあるので、また経済的時間的余裕のあるときいずれ。

*1:後に台湾人ということが判明

ヨガの本質は「散漫」にあり

最近気まぐれにYouTubeの動画でお手軽ヨガを見よう見まねでやりはじめた。これがなかなか気持ちよく、手軽でよい気晴らしになってくれている。以前からときどきカジュアルにオーソドックスな瞑想をしていたのだけど、個人的にはヨガの方が合っていると感じる。

 

オーソドックスな瞑想は基本的に体の動きを伴わない。ぼくの場合じっとしていると途中から前頭葉から眉間あたりが緊張してぐわんぐわんしてくる。

 

対してヨガは意識的を向けるべき部分と実際に効く部分とが異なっている。例えば、「あぐらをかいた状態で手を組んで両肘を広げながら上に伸ばす」という動作は肩甲骨周りの筋肉に効く。このときに意識すべきは「が上へすっと伸びる」イメージや「骨盤が地面に根をはるように」安定した感覚であり、実際に痛気持ちいい肩甲骨周りとは別の場所に意識を向けているのである。このことは、一点を凝視するようなしんどさに煩わされることなく、自然体で気持ちのよい感覚に浸りやすくするのに役立っている。

 

瞑想は瞑想で後頭部や足先などに意識を回すことで前述の問題はある程度回避できるので、電車の中などの自由に動くのが難しい場所でのリラックスに依然有用ではある。

 

ところで、 「気晴らし」を英語では distraction と言う。これは文脈によって「注意散漫」や「動揺」などと訳されたりするのだが、これらは「意識が別のところへ向くこと」という点で統一的に説明できる*1。ぼくにとってヨガとはまさに distraction の手段としての役割を果たしてくれているというわけである。

*1:さらに付け加えるならば distractor は、「(センター試験のような)選択式問題における不正解の選択肢」のことなのだが、要するに「解答者の意識を正解から逸らすもの」と解釈できよう

最近はもっと主体的に勉強しようと思って、マイペースにガロア理論をやっている。教科書ではすっきりしているように見えても、多分ここまですっきり整備するのにものすごい時間と労力とがかかってるんだろうなと想像する。あるいはフォン・ノイマンのようにものすごく頭の切れる人が少数精鋭で短時間で仕上げたのかもしれないが。数学を築く人、楽しむ人、外から眺める人、ひとくちに数学の世界といっても、いろんな立場と人の輪がある。それぞれ歩く速さも違う。数学の世界に自分で付け加えられることが何もなかったとしても、ひとりの学生として世界のワンシーンでも垣間見ることができれば、いまのところまあ楽しいしよいことかなと思う。

 

マイケル・サンデルの正義の本を読み終えた。ペンギンシリーズで受験英語のような読みやすさだったが、これまで生きてきて何となく頭の中にあったような考えをしっかりと詰め切ったような理論*1がわかりやすく紹介されていてすっきりした読後感だった。

 

 

*1:おそらく、ぼく自身が持っていたような考えはきっと人間社会ができた頃から何となくあって、それを学問として詰めたのがアリストテレスであり、ベンサムであり、カントであり、ロールズであり、フィッシャーであり、サンデルなのだろう