本当の優秀を前にして圧倒され苦しむ器用貧乏さんへ

器用貧乏という言葉がある。あるいはジェネラリスト、オールラウンダーともいう。能力的にバランスがとれていて、あらゆる分野において及第点からものによっては85点や90点くらいのパフォーマンスをこなせる人間が「なぜか」「不遇にも」能力を最大限活かすことなくくすぶっていることを、周りが「せっかく器用なのにねえ」と慰めたり、「地力はあるのだから」と激励するのに用いたりする。そう評された本人はというとまんざらでもない面持ちで「まだまだです」と謙遜しつつ、内心では承認欲求を満たされ小躍りする自分とそれをたしなめる自分とが絶妙なパワーバランスで同居している。そんな「器用貧乏キャラ」は控えめな態度でさえいればいかにも愛しやすく、例えば「何でもできて素敵。完璧じゃないけど、そこにこそあなたらしい愛嬌が宿っている*1」などといっておけばよい。

 

しかし、この器用貧乏という性質は元来、困難・障壁というものとどうも相性がよろしくないらしい。

 

人が困難を打破できない理由は何か。まず思いつくのは「努力不足」。気合いが足りてないのである。つるはしで掘る、よじ登って越える、トリニトロトルエンで爆破するといった試行錯誤を怠っているからである。これは、器用貧乏の中途半端さの一因であることも多いだろう。

 

しかしもっと根の深い問題がある。それは「乗り越えるべき壁を認識していない」という場合である。壁が来たら、ほとんど反射的にきびすを返す。回避的な性質だと攻撃したくなるかも知れないが、注意してほしい。そもそも壁を乗り越えるというのは、変人か不法侵入者がやる不自然な行為である。壁が空間を分断しているところへわざわざエネルギーを注いで逆らって行くからには、それなりの理由があるはずなのだ。

 

器用貧乏にとって、すでに90点のものを95点にする動機は、まだ55点のものを60点や70点にする動機ほど自然にはわいてこない。ましてや、100点の先に広がっている世界には気づきすらしない。目指すべきは及第点より少し上で、そこで満足なのだから。無理をして背伸びをする必要もない。ありのままの君でいいじゃないか。

 

それでももし、及第点より少し上で途切れている狭苦しい世界に嫌気がさしているのなら、まずは進むべき方向と、悲壮な覚悟と、壁の向こうにこそテロスがあるという信念とをしっかりと定めて、その壁と対峙してほしい。点数や他人の評価などもはや関係なく、自らの意志で突き進んでほしい。

 

優秀な人混みの中で、ひとり目的意識を失って、右往左往するあなた*2へ。

 

がんばれ。

*1:だってそもそも完璧な人間なんて存在しないんだし

*2:ぼく

父が来たので久しぶりにどこかにでかけようということで、学校の近くにあるお気に入りのラーメン屋で昼食をとった後、学校の構内を案内し、ユネスコ世界遺産であるところの上賀茂神社に参拝した*1上賀茂神社は小高い山の裾にあり、山との境目にある岩や、そこへむした苔、境内を南へ流れていく清流などと調和していた。

 

地元を離れてから6年ほどになる。父とは月に1, 2度会うが、話すたびにますます内容に事欠いていく。互いの近況や将来の予定、地元や全国のニュースなど、話題はありきたりでもかまわないはずなのに、思うように話が弾まない。お互いに疲れているような気がする。父もぼくも、身の回りで起こる出来事に対してコントロールを失いつつあるのだろうか。それとも、ぼくがひとりでそう思っていて、会話を失速させているのは他ならぬぼく自身なのだろうか。

*1:歴史についてはほとんど無知に等しいので参考ページ: 賀茂別雷神社 - Wikipediaを貼ってここではお茶を濁す

数学的優越感レースを棄権したい

scribbling.hatenablog.com

 

こちらのエントリに応援コメントをいただきました。ありがとうございます*1

 

 

 

 

自分よりも「圧倒的にできそう」な人が目の前に現れて、しかもなんか他人(特に「格下」)に興味なさげな雰囲気出してて、取っつきにくそうで、自分なんかどうせ相手にしてもらえへんやろなって感じるとき。まあ、おるんやけどな、実際そういう人が。そういう人がいると、なんか自分なんか無価値な感じがしてきてさ。

「きみが勉強する理由」は、たったそれだけでいいのかい? - The Loving Dead

 

できない人を見下すような発言をする人はいる。それは、友人同士の居酒屋会話のような感覚で愚痴ったものがたまたまぼくの耳に入ってきただけかも知れないし、あるいはそれが彼らのいらだちや不満を(ツイッター芸人やFX芸人などのような)「知ったかぶり芸人」、すなわちエンターテイメントとして昇華することに主眼を置いた行為なのかも知れません。彼らは彼らで「できてしまう人」の居心地の悪さをもてあましているのでしょう。この問題については(存在しても)彼らの領分で、いまの自分が手を出しても仕方がない。

 

むしろ避けて通れないのはぼく自身の居心地の悪さであり、ものの見方の問題です。できそうな人に相手にされなそうという視点から自分自身に対して無価値感を抱いてしまっている。言い換えると、自分自身の価値の意識が専攻分野における能力に大きく引きずられてしまっている。ここに数学をやりながら感じる苦しさの原因があるとみています。

 

ぼくはもともと数学が得意ではありません。中学生のころの数学は赤点とまではいいませんが、平均以下をとった時期もあります。それも私立の優秀な進学校でではなく、普通の地方公立中学校で*2。数学に色気を出したのは、通っていた塾と高校の数学の先生がたに出会ってからです。あの先生方がいなければ、ぼくの数学観は「おもしろみのない数値計算」どまりだったと思います。

 

ところで中学校の先生方の名誉のために申し添えておくと、当時のぼくは思春期特有の多感な時期にあったりだとか軽い総スカンを食らっていたりだとか好きな子の誕生日に貝割れ大根を贈呈する残念ぶりを発揮するのに必死だったりとかで、とにかく勉学に重きを置いた学校生活を送っていたとは言いがたいのが実際です。さらに地方公立中学に集まる(必ずしも勉強に関心を置いていない)多種多様な生徒たちに等しく義務教育の要請する最低限の水準をクリアしてもらうことを優先させなければならないといった事情もあるでしょう。したがって中学時代の先生方に教師としての技量に責任を押しつけるつもりはありませんし、筋も悪い。

 

高校では学校でいちばん数学ができたというわけではありませんが、それでも取り組んでいて楽しかった。新しい概念が導入されて世界が広がったり、いまでは瞬殺できそうな問題にも一生懸命知恵を振り絞って解けたり解けなかったり、友達と教えあったりして、とても生き生きとしていました。当時はそれを「数学が約束する報酬」だと思っていました。数学にきちんと取り組みさえすれば、そのようにして満たされ報われるのだと。

 

しかし、高校生活の中盤から人生で初めての彼女とつきあい初めて、楽しい高校数学生活の雲行きがあやしくなりました。彼女の不遇さと不安定さを支えることにとりつかれるようになったのです。数学に取り組むことよりも、自分を愛し(ていると主張し)ている人を助けることに、強く引き込まれていきました。高校生にはおよそ不釣り合いなその関係は当然のごとく破綻しますが、そのときには周囲の人間関係もほぼ消滅し、そもそも生きて存在し続けること自体が苦痛であるようなような状態まで陥ったりしており、自分でいうのもなんですが、喪失感は筆舌に尽くしがたいものでした。

 

そのときからだと思うのですが、ぼくにとって数学はもはや単にやって楽しいだけのものではなく、下手をすると自分がひどく傷つくかも知れないという、諸刃の剣になってしまっています。数学だけではなく、自分が真剣に取り組むあらゆるフィールドにおいて。そして数学を専攻する段になって「数学が約束する報酬」は、実は「失敗しても自分を許せるだけの心の余裕」あるいは「わからない状態を楽しめるだけの元気」といった心的リソースを前提としたものだったことに思い至るのです。

 

いまこの状況で、数学における「優越感レース」に乗り続けるのは、得策とは言えません。ぼくにとっては、数学を楽しめるような心的状態を回復することの方が大切で、そのためには「優越感レース」を棄権する必要があるのですが、棄権するにも「どう思われたってかまわない、自分は自分のやるべきことをやるんだ」と振り切るだけの覚悟、いわば"キャンセル料"がかかるのです。

 

今回いただいた応援コメントは、(真心をお金に譬える不作法をお許しいただくならば)そのキャンセル料にあてることができそうです。他にも自分が得意なことをやったり、いろんな人といろんな話をして人情を感じたりして、ああ~~早くこんな空想上のレースから抜け出したいぜ。

 

心的リソース、ためて待つぜ。

*1:別段告知をしていたわけではないのですが、コメント欄はとりあえず私信として受け取ることにしていますので、コメントそのものは直接公開せずにお話させていただきます……のつもりが設定ミスで自動公開されていました

*2:聞くところによると進度に大きな差があり、体感でおおよそ2, 3年くらいの開きがあるのではないでしょうか

「今日のよかったこと」習慣

前やっていたブログを眺めていたら、なにやらエントリごとに「今日のよかったこと」を3つあげるという習慣を実行していた。これはそれなりに効き目があったように記憶しているので、復活させてみてもいいかもしれない。

 

今日のよかったこと
  • 体の拡大を楽しく勉強できた。
  • お昼すぎまでゆっくり寝て回復できた。
  • 鮭の甘酒西京焼き(?)がとてもおいしかった。

 

そうそう、鮭(に限らず食用の魚類一般)を甘酒に数時間(お好みで2日くらい)つけておいたものを水で洗ってからフライパンなどでやくととてもおいしいんですよ。甘くてまろやかな風味になる。

 

recipe.rakuten.co.jp

 

鶏肉でもおなじようなことを試したが甘みが強くなりすぎて、やはり魚に適した調理法だと感じた。

 

強いて弱点をあげるとしたら、だいたいどの魚でやってもおなじような味に仕上がること。とはいえ、それは「ソースをかけたらソース味」になるのと同じ理屈なので、いろいろ工夫して「最強の組み合わせ」を探求していただきたい。

西京だけに。

 

 

 

あっ、あっ、はい。

Smiles of a Mother Who Has Been Through with Rape

I talked to a woman who had been raped before. I didn't ask any more special question than "Have you got a child?", which turned out to be a shocking story. She was raped by a guy whose friend she'd known, got pregnant and gave birth to the child, who is not considered to be legitimate thus not hers. In her country, abortion is illegal. She said she was in the process of divorce, but I failed to grasp whether the ex-husband was the one who raped her or not. 

 

She kept smiling naturally, in no compelling way, whilst she was telling me her story. That overwhelmed me most. How could one narrate such a painful experience as if only a slight difference did it brought to one's life? I also relate to my little story from time to time (trying to be) calm in retrospective, but, deep down, I'm still struggling with the reason why I had to get through the difficult time.

 

Not that I want to under- or overstate my (or anyone else's) past. I don't even feel urgent for explanation of it. Still, her consistent cheerfulness hurts me probably because I'm not yet ready to talk about myself in that simple and objective way.

 

Shock is not the only thing I got from the conversation. I also felt comfort and relief, which, as far as I discern, boiled down to my recognising part of myself in her reflextion. 

 

Let us abhor rape, but yet, for now, I would like to express my appreciation for her sharing the distress she underwent.

 

Too emotional?. Sorry, sorry, but I don't seem to be cut out for dandyism. I'm working on it, though.

 

 

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「きみが勉強する理由」は、たったそれだけでいいのかい?

学校で開催された就職説明会に参加してきた。もともとは「豪華食事」を目的にしてたんやけど、各企業の説明を聞くうちに、いまやっている勉強が案外先へつながっていくかもしれへんな~という可能性がほの見えた。企業での研究職というのは、徹底した成果主義の厳しい側面もある一方で、自分に合ったはたらき方がしやすいもんらしい。これまで勉強をやる理由として"没入感"や"達成感"みたいな、その中に目標を見いだして続けてたようなところがあるんやけど、思えばこれは単に勉強が「将来につながる」という可能性を知らんかっただけの話かもわからん*1

 

それにしても、勉強っていつでも楽しいものやと感じられるわけやないんよな。それを認めるのはちょーっと後ろめたい感じもするけどさ。ほんで、どういうときに楽しくなくなってしまうかっていうと、自分よりも「圧倒的にできそう」な人が目の前に現れて、しかもなんか他人(特に「格下」)に興味なさげな雰囲気出してて、取っつきにくそうで、自分なんかどうせ相手にしてもらえへんやろなって感じるとき。まあ、おるんやけどな、実際そういう人が。そういう人がいると、なんか自分なんか無価値な感じがしてきてさ。「そんなん、アホやん、そんなんで卑屈になることないやん」って、よそから見てたらそう思うのは知ってるし、そういう心の声も聞こえてくる。

 

そんな精神状態では、例えば何かひとつ学んだとしても、「ああ、これだから数学は楽しいな」となるんじゃなくて、「あーあ、ぼく以外みーんなこんなこと地球が生まれる前から知ってたんやろ」なんてふさぎ込んだりして、"新しく理解することのよろこび"を矮小化してしまう。いや、さらにいうとそれだけやなくて、"自分の学習の遅さ"という問題にすり替えてさえしてしまってる。

 

今回の「いまやってる勉強が将来につながるかも知れん」という気づきは、さらに「勉強のインセンティブには、もっともっと広く豊かに持ちうるもんなんかも知れん」という類推をもたらしてくれた。"没入感"を楽しみたくても、どうしてもいろいろ懸念して気が散ってしまう時期があれば、"達成感"を味わうつもりで取り組んだら逆に"挫折感"にやられてしまったという事故もある。そんなときに「でもこれは将来につながるから」「とりあえず卒業はしないといけないから」「たとえいま全部消化できなくても少しは院試合格に資するところはある」などという動機を原動力に変えることができれば、もう一踏ん張りできることもあるんちゃうかなって思う。

*1:学歴は"就活"においては"看板"としてある程度の効力を持ちうることは知っていたが、「じゃあ実際に大学や大学院で身につけた内容がいかせる場が存在するのか」という点については8割方悲観していた

1日の締めくくりにふさわしい動画を見て、納得してから寝よう……と思っているうちに朝がきた。

 

思えば情緒の欠落した1日だった。バイトをこなして、少し勉強して、パソコンにかじりつくだけの平凡な時間を過ごした。いや、平凡は大抵そうで、それらを味わうための心が死んでいた。五感からの情報、自らの言動、総じて心にたまったように感じない。どこかに穴でも開いていて、注いだ端から漏れ出していく容器のようだ。

 

何かをしなければ満足して布団に入ることができないが、何かをするにも心がはたらいていない。音楽をきいても、文章を読んでも、書いても、いまひとつピンとこない。

 

こういうときは諦めて眠れなくても素直に布団に入ってじっとしているのがよいのだろう。それでも夢の門をくぐるきっかけを求めて、地縛霊のごとく現をさまよい続けてしまう。

 

不本意だが、今日は終わりのない日として受け容れるしかない。