2016年訪れた街の総括

12月、すなわち1年を総括する時季がやってまいりました。たまには意識を内から外へ発散させようということで、今年訪れた場所を列挙し軽くコメントでも添えてみましょう。

 

ニュージーランド(北島)

これはすばらしかった。特にロトルア(Rotorua)でのマウンテンバイクは、これだけのためにNZを再訪する価値のあるアクティビティだと言える。坂をかけおりている間の主観視点はこういう感じ*1

 

風と振動を体いっぱいに感じながら、ハンドルをさばくあなた自身をイメージしていただきたい。やりたくなってこないだろうか。

 

 他にもカジノやツチボタル洞窟探検ツアーなど、日本では決して味わえないアクティビティはたくさんある。リタイア後とはいわずに、若いうちにも是非訪れてみてほしい。

 

 

 

奈良県

日本国内における本年のハイライトと呼んで差し支えない。自転車を一生懸命こいで天理市・明日香村をまわった。

天理教の教会本部で「てをどり」の方法を教わって、「あさづとめ」に参加させていただいた。新鮮な体験で、終わった後何となくすっきりした。これが「あしきをはろうて」いただいたということなのだろう。

あさづとめ・ゆうづとめに参加したければ、この動画の内容をマスターしてから行くとよい。参加は無料*2で、本殿への出入りは自由。あさづとめ・ゆうづとめの時間でなくともおつとめをしている人はいる。

 

 

明日香村についたときにはあまり時間と体力が残されておらず、適当にひとまわりして帰ってしまったが、のどかでよいところだった。

 

 

 

滋賀県

バス釣りに行ったが、つれなかった。というより竿を釣りができる状態にするのに手間取った。それとは別件でサウナにもいった。そのくらい。

 

scribbling.hatenablog.com

 

 

 

茨城県

高校時代の友人を訪ねた。苦労しながらもそこそこに元気そう・楽しそうで安心した。旧友に会うというのはすばらしい体験だ。そしてずっとそうであってほしい。

(歌詞はこちら)

酒をのみ、カラオケを歌うというありきたりな娯楽と、申し訳程度の変化球のつもりでボルダリングを試した。初めての経験で、気に入ったといっていた。

 

 

 

東京都

早稲田大学を訪れた。きれいな校舎だった。新学期(後期)早々学生でごった返していた。生き生きとした空気を感じたが、それは寒さにハリが出てきたいまでもなお保たれているのだろうか*3

「こうはいナビ」は早稲田大学の受験生・新入生をサポートするという目的で活動しているサークルである。どうやら「なびぴょん」というのが早稲田大学受験生を応援してくれるらしい。動画でも受験生・新入生向けの情報を流しているようなので、万が一にもここを見ている早稲田受験生・新入生はsubscribeでもしておくとよい。

 

 

 

と本年を振り返ってみたものの、まだ明くる年まで1か月を残しています。実は今年中に福岡を訪れる予定になっているので、また気が向いたら日記でも書きます。いやあ、自意識の遠洋に漂ってばかりいないで、たまには現実大陸の具体的な風景や手触りを噛みしめるのもいいものですね。

 

ちなみに、今日は劇場版艦これを見に行っていました。アニメ版がどうもひどい*4ときいていたので期待を検出限界値以下で見たのですが、思ったよりはらはらして楽しめました。アニメ版をいくつか視聴した友人によれば、世界観をしっかり作りこんだということ自体が驚きで、普通におもしろく、いい意味で期待を裏切られたという。

 

とりあえずぼくは劇場版とブラウザゲームに触れて撤収して、艦これのいいことどりをさせていただくこととします。

*1:動画は本人(ぼく)のものではありません。まずこんなにうまく走れませんし……

*2:神社や寺と同じで、お賽銭をいれる箱はある

*3:ぼく? ぼくはなんかもうダメです

*4:友人評して曰く「(艦これアニメは)艦娘たち動いているのが唯一のいいところ」

人の内面を語るとき意識すること

人の思考、感情、思想、習慣、欲望、規範意識……そういうものがおもしろくてたまらない。結ばれずに消える言葉、表現の裏にある心にきちんとした骨を与え、肉付けをし、磨き上げるプロセスは無限の刺激と達成感とをもたらしてくれる。「相互理解への努力」といえば聞こえはよいが、努力という言葉から連想されるような禁欲の態度・姿勢ではなく、むしろ純然たる欲求、それも他者のやわらかい部分を必然的に巻き込むような欲求に基づく行動である。譬えるならば、心のヌードデッサンである。なればその方法には注意を払わなければならない。自分の欲求を優先的に肥大させ、周りにその割を食わせてばかりでは人間関係は立ちゆかない。「そんなことで立ちゆかなくなる人間関係なぞ」と唾棄するのは理屈の上では最も簡単な手のひとつかも知れないが、そんな大ばくちを打てるほどぼくの肝は据わっていない*1

 

したがって、引き際の判断や好奇心の発露をコントロールする方法を考えなければならない。いま思いつくだけ整理してみようと思う。とりあえずこれまでの失敗に鑑みて考えようとしているので、途中で嫌になって「あ~~~~~~……ああああっ!」といってやめてしまうかもしれないが。

 

自分と同じ興味を有しているとは限らない

「人の内面を垣間見たい!! 自分自身という人間にももっともらしい説明を与えてみたい!!」という気持ちはさほどマイナージャンルの好奇心だとは思わない。しかし、その対象や程度、視座・視点は千差万別で、ある人が好む切り込み方が他の人に快いものであるとは限らない。そもそも人間に絶望していて、極力見たくないということもありうる*2。単に気分の問題もあるだろう。そしていま述べたことはすべて流動的で、昨日と今日ですっかり嗜好が変わってしまっているかもしれない。

 

誰かのセンシティブな部分を引き合いに出している

それは自分かもしれないし、目の前の相手かもしれないし、第三者かもしれないが、いずれにせよセンシティブな部分の話をしているという自覚は是非したほうがよい。その上でいかなる方向へ論ずるかは自分の心と相手の様子を見ながら舵取りしていく。同じ話題でも人によって反応はまちまちで、「この話題ならいつでもどこでも安心」ということはない。自分が無邪気に述べたことが相手の耳に届くまでに不純物を吸着したり、相手の脳内で思わぬ化学反応を起こしたりして「ああっ、そう聞こえていたか~!!」と気づかされるケースもある。いくら信頼をおいている相手でも、こういう話題を雑に扱って得るところは少ない*3。デリケートな話では誰しも多かれ少なかれ意識的になる。

 

「自分」「相手」「第三者」のうち、スポットライトを当てるときに最も注意を払ったほうがよいのは「相手」だが、この次に気をつけるべきは「第三者」だと考えている。これは「自分の知らない相手の知り合い」に"刺さった"場合のリスクを考慮してのことである。自分語りの流れで知らない誰かに"刺さって"しまった場合、「自分を意識してのことだから」という言い訳が成り立つが、そうでない場合は気まずいことになる。もちろん、「自分」だからと気を緩めすぎても罰は当たる。

 

意見の不一致に伴う「ぐらぐら感」の制御にはエネルギーが必要

人間観という壮大なテーマや、人の内面という不安定で目に見えないもの、しかも自分も相手も巻き込む話題を語る醍醐味(のひとつ)は、はじめ意見が食い違っていたところを両者がともに歩み寄り、すりあわせ、ついに妥協点を見いだして握手を交わす、そのプロセスにあると感じている*4。ところが意見の相違に「なんか嫌な予感がする」と不安感を覚えたり、ともすれば「それはちゃうやろ」と腹が立ってきたりするかもしれない。それに伴う「ぐらぐら感」が肌に合わない可能性は常に考慮した方がよい。いくら自分のコンディションが最高で「なんぼでも付きおうたるで!!」と意気込んでいても、また相手の居心地の悪さを受け止める自信があっても、舞台へは自ら勇んで立ってもらわなければ、さんざん相手を引きずり回した割に有意義な成果を得られずに終わることとなりかねない。このあたりも好みと体調・気力との相談である。

 

 

 あ~~~~~~……ああああ!!

というわけではないが、夜も遅く普通に疲れてきたのでこの辺にしておく。書くのは簡単だが、振り返ってみると、やはり熱中するほど脳みそから抜け落ちてしまうといわざるを得ない。その自覚は一方で自分を戒め、他方で人間への愛を改めて認識させる。

人を語らうよろこびおじさんです。

*1:もうひとつの手は、逆に人間の中身をのぞく趣味を諦めることだが、これもぼくには難しい

*2:はじめからそういう性質の人もいるだろうが、もともと人間が好きだったけれども嫌な目に遭って人間不信に陥るということだってある

*3:もっともキャラによっては例外もありうる。例えば、普段から「雑さ」で通している人などは、変に丁寧になるとむしろ「なんや急にお前」と気色悪がられるか「風邪でも引いたか」と心配されるかもしれない

*4:といってもこの対話様式はもともと借り物で、いまでは疎遠になってしまった知り合いから学んだものである。彼とぼくはこの様式を明確に意識して話をしていたが、他の人との対話においてはこのストーリーに沿っているわけではない。そもそも苦労してすりあわせるほど不一致があるというケースが少ないからだろうか。むしろ「もやのかかった感情や思考に言葉で説明を与える」という形式が圧倒的多数かもしれない。これはこれでひとつの醍醐味と呼んでよかろう

戦時中でも空襲があっても笑いあう日だってあった

友人に誘われるままに『この世界の片隅に』を見た。ぼくはこの映画を見て学部1年生のときに一般教養として受けた「民俗学1」の講義を思い出した。普段あまり映画を観ないが、よい機会なので拙いながらも感想を書いてみる。ネタバレはほとんどないと思うが、念のため警告はしたこととする

 

民俗学とは、一般教養レベルの知識でおおざっぱに言ってしまえば各時代各地域における「普通の人々の普通の暮らし」をとらえようとする学問だ。人は「当たり前の日常」などいちいち意識したり、ましてや記録しようとはしない。だから民俗学の研究においては(おそらく歴史や文学などとは違う方向で)データ収集から工夫や苦労を強いられる*1。このデータ収集の一手法として当人たちへの聞き取り調査を実施し、彼らの「生活史」(自分史)を執筆するというものがある。ぼくはこれを期末のレポート課題として体験した。

 

 生活史とは

「現在にいたるまでに個人がたどってきた経歴を、一定の項目(例えば、家族歴、学歴、職歴など)を含めた上で、本人や聴取者により作成された自分史のこと。個人は、自らの社会的生活を、客観的な制度と主観的な体験との間の相互作用として経験するが、その相互作用の過程を、個人の側から記述したものをいう」

(三田宗介他編1988『社会学事典』弘文堂)

 

 

生活史は語り手・聞き手双方の興味・関心によって、いかようにも記述されうるものであり、決まった型はない。かといって好き勝手に何をどう書いてもよいというわけでもない。「民俗学1」の授業では、話者の体験の重点を置くこと(些末な情報で書くべきことを埋もれさせない)を意識しつつ記述者の感情表現は控え、感動に値した事実を丁寧に描くこと、そして場所や時代(日付)といった基本的な事項を書き漏らさないことの重要さが再三強調されていた。

 

祖母からは、ちょっとだけ呉戦災の話は聞いたことがあった。
でも私は、あまりそれをまじめに聞いてこなかった。
祖母は亡くなって聞くことはできない。
そこらへんの後悔の念はあった。


祖父母とか、話をできなくなってしまった人々と、描くことで対話をしているような、そういう人たちのことを追いかけるように丁寧に描ければいいなと思った。

映画「この世界の片隅に」 こめられた思い|特集ダイジェスト|NHKニュース おはよう日本

 

 

この世界の片隅に』という作品は、結果的に上記のルールをすべて満たしているように思う。「感情表現が控えてあるか」「書く(描く)べき重点を意識しているか」といった部分は作品の表現に抑制がきいていることや原作者が多くの資料に当たったり精力的に聞き込み調査を行ったという背景事情からそう感じる。キャラの感情表現などは必要十分になされている。「楠公飯」のくだりなどはレシピまできちんと語らせているあたり、作者たちのこだわりを感じる。きっと資料を読んで「おもしろい」と感じたのだろう。基本事項の書き漏らしがないことについてはもっと明白だ。">作品中にはシーンが切り替わるたびにきちんと日付が映し出される。また主人公すずの出身地が「広島市」であって、メインの舞台が「呉」であり、ある事情で「下関」を訪れていたということもきちんと作中でわかるようになっている。また、作者たちは「歴史的客観的事実」ばかりにこだわらず、個人の「主観的な体験」を大切にしているということが、冒頭の「人さらい」のエピソードをはじめとする子ども時代の数々の超現実的なシーンの描写から読み取れる。長くなってしまったが、要するに原作者が聞き取ったこと調べたことを過不足なく忠実に作品の中に再現して残しておきたいという思いが強く反映された作品に仕上がっているのだ。

 

戦争は総括すれば惨劇だが、戦時中の生活のあらゆる瞬間が悲しみだけでできあがっているわけじゃない。原作者および制作チームは戦時中の生活を決して「惨劇」などという安易なテーマに沿って都合よく切り貼りしようとせず、生の声と真摯に向き合い、文章の代わりに絵とセリフで「記述」した。そうしてできあがった作品はアニメ映画という形でまとめられた民俗資料なのだといいたくなる。人はみないずれ死ぬ。戦争を経験し、生き延びた世代も同様に。そうしたときにナマの声を閉じ込めた『この世界の片隅に』は戦時中の人々の暮らしを緻密に追体験させてくれる貴重なマテリアルとしても機能しはじめるにちがいない。

ぼくはぎりぎりを生きてきた若者だから

ぼくは自分自身を大いに愛されて育ってきたと判断している。そしてこの「無償かつ無条件の愛を注がれて育ってきた感」が時々しみ出しすぎて、offensiveになるきらいがあるという自覚がある。まあそういった個人的な悪い癖については都度修正をかけていくということでマウンティング的圧迫を感じさせた方にはひとまずご容赦を被りたい*1。それはそれとして、やはり原則として愛情はそのようなものが大抵好ましいと思っているし、もし自分自身が親になる日が来るのならば、そのような形の愛を注ぐよう努めたいと考えている*2

 

やっぱりぼくはまだ青いんだろうな。自分自身は(財産はないが)幸せな家庭を出自としていると自認していて、またお世辞にも幸せとは形容しがたい家庭も垣間見る機会があって、そんなところでもがき苦しむ大切な人に手をさしのべようとしたらむしろ自分自身が疲弊してしまって、気づいたら生きる意味を見失っていて、それでも両親とひとりの友人はぼくの話相手になってくれて、数年かけて徐々に自分を取り戻したりして、いまではまた大切な人に巡り会ったりして、数年後れで希望の学校に入って人並みに学校の課題で苦労したりなんかして、まあなんとかいまに至っている。大きな転落を経験したものの、ぼくの人生にそこから這い上がるのに必要十分な手がかりが偶然よい案配で配置されていたからこそ数年がかりでなんとかなったというのが正直な感想だ。

 

これでよそにかまわず「ああ、よかったよかった」でやっていくのが大人というものなのかも知れない。しかし、ぼくは数年の回復期間を経てもなお若い。親や家族の役割、勉強・学習といった事柄において、自分にとって「もしもこれが自分のこれまでの人生に入ってきていたら、いまの自分は実現していなかっただろうという危険因子」を感じ取ると、脳が、心が反発する。

 

勉強をする理由ではなく勉強で感じられる意味を――学歴社会と学歴文化をうまく生き抜くために―― - The Loving Deadをほとんど反射的に書きはじめたのは、おそらくそういう事情が関係している。言及先で述べられていたのは、"ぼく個人にとって"そういうたぐいの「危険思想」だった。一旦落ち着いた話を蒸し返し、あまつさえ「危険」などという強い言葉で形容する無礼を今回限りお許し願いたい。繰り返しになるが、たゆまぬ愛情をもって立派に親という役割をこなされているという点は尊敬しすぎることはないし、いずれ来る日に備えて手本として焼き付けておきたいとも思う。あの日、ぼくは誰かを諫めるために書いたのではなく、自分を守ろうとしたナイーブな心が筆を執ったのだ。

 

あのエントリ以降、ずっと胸に引っかかりを感じていた。それは「なんだか自分の出自と感性を鼻にかけた嫌なヤツ」になってしまっていたことへの言い訳だったが、「ちょっとくらい『嫌なヤツ』になってでも守りたいものがあったのです」と弁解して、一応の決着を見たことにする。

 

もっとも、誰かに直接的に指摘・批判を受けたわけではなかったので、ほとんどシャドウボクシングみたいなものではあるのだが。

*1:幸いにもそのような印象を持ったという報告はいまのところないが、それでもたまたま目に触れたという方で傷ついた人がいる可能性は否定できたことにならない

*2:そんな胸算用だけでどうにかなるほど子育ては甘いものとは思っていないが

「自分が打ち込んでいることに対して、どのような取り組み方があるだろうか」というたわいない疑問がふと頭をよぎった。直ちに思いつく方向性はふたつ。ひとつはいわば「競争志向」で、他人と意地を張り合いながら勝った負けた、悔しい誇らしいを繰り返し、全体における自分の序列を感じ取る中で、さらなる努力し向上を目指すタイプ。もうひとつは「生きがい志向」で、得意分野を自身のホームとみなし、そこでの活動に安心感、生きがい、没入感、自身の解放を見いだすタイプ。

 

人と比べるのが好きな人はどんどん競争したがり、自分の大切な取り組みを外側へ向けるのが不安な人はひとりで一見淡々と取り組み続けるものではないだろうか。ぼくはやっぱり負けるのが嫌だから、「生きがい志向」なのだろうかと思った。語学、特に英語への思い入れはひととおりではないので、ぼくはこれをここにはあまり学習記録を書いたりせず、自分のペースで伸ばしたいと考えていた*1

 

でもよく考えてみると数学については人よりいい点数がとりたいと思う。あいつらよりもできるようになれればいいなと。いまのところだいぶ苦労していて、友達にも教えてもらってばかりだが。だから「競争志向」か「生きがい志向」は当人の本来のひととなりばかりでなく、個人の取り組みの対象ごとにも決まりうるものらしい。

 

ぼくにとっては語学はすでにホームで、ますますこれを強固なものにしたい。ただ学び続けてますます安心感を高めたい。世界中の人と会話して、英語で夏目漱石やらドストエフスキーやら読んで、英語によって自分自身を自在に表現できるようになりたい。自在に表現できるようにというのは大変な話で、日本語ですらフィットする言葉探しに苦労しておきながら結局妥協して適当にすませてしまうことしきり、母国語でそんな状態なのだから、望むところは山より遠く空より高し。語学は命や。

 

とはいえ、実は最近"got into a rut"の感があって、やはり競争の"濁流"へ向かって英語学習とともに飛び込もうかと考えている。例えば各種コンテストやらに出てみたり、資格試験(TOEICなど)を受けてみたり。昔からどうも"実用的"な学習は気が向かない文学少年タイプ(?)なのだが、自分の狭い世界に閉じこもってばかりいるわけにもいかなくなったと思って、観念してしまおうか。

 

あるいはもう少し、語学の天才といわれていたような関口存男井筒俊彦あたりを見習って、自分の殻に閉じこもる姿勢でやるか。

*1:以前に学習記録を書き始めようとしたことがあったが、こういう事情もあってストップしている。もし何か新しい学習ブログのアイデアが生まれたらまた試してみてもよいかも知れない

海外旅行の楽しみは地元のスーパーマーケット巡り

わたしにとっての海外旅行の楽しみはスーパー巡り。どの国のどの地域でも地元のスーパー巡りだけは外さない。

 

「スーパーなんて世界共通どこもおんなじ」ではない。わたしは中国、イギリス、ニュージーランドへ行ったことがあるのだが、いずれの国も日本のスーパー*1とはいろいろな違いがあっておもしろかった。置いてある商品の種類、その国の言語での名前、価格、配置、痛み具合、会計のシステム、店員や客の雰囲気等々、あげはじめたらきりがない。

 

例えば、ニュージーランドは日本にくらべて一般に物価が高いといわれている。全体として体感1.3-1.4倍くらい。特に外食がどうしても高くつく。しかし、スーパーに行けば果物類やパン類が日本と比較して安くいろいろな種類のものが手に入るということに気がつく。わたしも滞在中はパンや袋詰めにされたホットケーキ(日本では比較的めずらしい)を買ってピクニック気分で外でかじったりした。また、客の多くはクレジットカードで支払いをする。日本でもクレジットカードの利用が進んできてはいるけれども、スーパーなどの日常生活の買い物ではまだまだ現金が根強いように思う。

 

スーパーを利用するということは地元の人の暮らしを味見するということでもある。「ここの人らはいつもこういうもんを食べてるんか」と思いをはせながら、今日手に入れた食材をホステルに持って帰り、調理する。見慣れない食材があれば、ネットで適当にレシピを探してきてそれを試す。調理に手間をかけたくないときは、デリカテッセンなどのできあいのものを食べるのもいい。それだってその国その土地の人たちが普段口にしているものに違いない。「現地人との交流」にはなかなか手は届かないけれども、スーパーを通じてローカルネスを楽しむことは簡単だ。

 

名所巡りというのももちろん楽しいし、実際のところそれを軸にして計画を立てる。スーパー巡りはあくまで"従"であり"主"たりえないのだが、夕飯の味噌汁のような、ないとどこかさみしく感じてしまう*2、わたしにとってはひとつの立派なアクティビティだったりする。

*1:日本のスーパーも地域によって売っているものがちがっているので、国内旅行の際はやはりその土地のスーパーを巡るのがわたしのひそかな楽しみである。例えば北海道ではかにやらうにをはじめとする海産物がかなり安いことに驚いた。また、これはコンビニだが、「セイコーマート」というローカルチェーンが提供する「ホットシェフ」もおもしろい

*2:といいつつ個人的に味噌汁は特に好きというわけではなく、海外で味噌汁を恋しく思ったこともないのだが

サウナに入るともう気が狂うほど気持ちええんじゃ

サウナ、誘われて行ってみたのですが、なかなかいいものですね。前はスーパー銭湯に行ったときに気が向いたら入ってみて数分して適当にあつくなったら出て終わり……だったのですが、どうやら正しい入り方というものがあったようで、週に4回サウナに入るという方にレクチャーしてもらいました。レクチャーといっても、方法は至ってシンプルで

 

サウナ20分→水風呂2分を3, 4セット。

 

だけなんですけど。要は途中で投げ出さないように最後まで付き合ってもらったということです。

 

 

1セット目はそらもうやる気満々で意気揚々と入るんですが、サウナ素人のぼくは

 

5分経過「あと何分ですか」

8分経過「まだですか」

10分経過「あと何分ですか」

11分経過「まだですか」

11分40秒経過「あと何分ですか」

 

12分3秒あたりで「やかましいんじゃ!」とストーブに顔突っ込まれて、しばらく記憶を失った。

 

そんなこんなで20分を過ごしたら、もうふらっふら。軽くシャワーで流した後水風呂へ入るもこれがまた冷たい冷たい。正気を保つのに全神経を集中させて、徐々に沈めていく。「ああ、これが"いまを生きる"いうことなんやな……」などと深そうに見えて内容のないことを考えながら、周りの水にぼく体温が伝わるのを感じる。すると今度は体が冷えてめまいがする。このときはこれをあと2セットもするなどとは考えられず、内心では、次のセットの途中で気分悪くなったことにしてリタイアさせてもらおうか、とも思っていました。

 

ところがどっこい2セット目のサウナ、むちゃくちゃ快適ではないですか。それこそ夜が寒いこの時期に、あたたかい家へ帰ってきた瞬間の心地よさ。このまま眠れるとさえ思いました。……まあこれも前半の10分だけで、後半はやはり苦行だったわけですが。それでも苦行度合いは1セット目よりはましだったような気がします。

 

2セット目の水風呂は、やはり1セット目よりも入りやすかったです。めまいは1セット目よりもきつかったような気もしなくはないですが、「もうやめたい」とは思いませんでした。あと1セットくらいはできるかな、と。

 

3セット目も同様に、前半快適、後半耐えられる苦行といった具合でした。

 

お風呂から上がってくるまで1時間半ほどでした。サウナ上がりのマッチは最高のひとことに尽きます。スポーツをした後のようなさわやかさと眠気に包まれながら銭湯を後にして、その日は焼き肉を食べて帰りました。

 

サウナがここまでのものとは。これまで見過ごしていたもの中によさを発見するよろこびよ。とはいえ、ひとりではきっと完走できない気がするので、またいろんな人を誘って行ってみようと思います。楽しいサウナライフを。