語学をやる意味

表向きは理系の学生で、興味ももちろん理系(数学)に向いているということになっているが、正直にいって数学ばかりやっていては息が詰まりそうになる。かといって英語(語学)ばかりやっていてもしっくりこない。交互に手をつけたくなる。

 

英語が読めればアクセス可能な情報が増えることで世界が広がるという。ウィキペディア日本語版はおよそ100万記事を有するところ、英語版はおよそ510万記事を有し、単純に比較して情報量が5倍ちがう。記事ひとつひとつにしても、日本語版より英語版のほうが概して充実しているように見受けられる*1他にもコミュニケーションをはかりうる人の数が増えたり、職業選択の幅が広がったり、あるいはもっと直接的なインセンティブとして収入アップの道具にもなる。大いに結構。しかし、英語によってもたらされる世界の広がりを、「選択肢の多さ」や「可能性の広がり」の話だけで終わらせるのはもったいないのではないかなあと思う。もっと主観的に生き生きと感じられるものがあるはずだ。

 

それは「非母語を通じた体験そのもの」である。日本語で見聞きしよく知っていると思っていることを別の言語フィルターを通して再び体験する。知っているはずのことでも慣れない言語を間に挟むととたんにうまくいかなくなり、大変もどかしい。聞くにつけ読むにつけ、何かものすごくややこしいことをしているような気持ちになる。全く新しい内容に触れているように思えても、日本語に直してみるとなんということはなかったりする。悪いことばかりではない。個人的な例だが、僕は他人に"You're amazing!"と言われたほうが「すごいですね!」と言われるよりも新鮮さがあり、同じ声量、高さで言われてもより「うれしい」と感じる。また、ずっとその言語に触れ続けていれば語彙や表現は自然と豊かになり、成長の喜びを味わうことができる。

 

「非母語を通じた体験」は、母語の中で味わったものと一致するはずはない。同じような物事に触れていても、それを通すフィルターを変えれば、体験の質も自ずと変わる。同じ道を歩いても、行きと帰りとではそれぞれ景色が全く違って見えるように。

 

これこそが新しい言語を学ぶ、最もファンダメンタルな「意味」だと思っている。生を受けてから死に至るまで、一度きりの人生を違う視点から二度三度楽しむことを可能にしてくれるツール。ときどき忘れて「実用」だとか学習の「目的」ばかりに気をとられることもあるが、中学校で英語を学び始めてからいままで基本的にこの考え方は変わっていない。

 

数学もよく「言語」だという言い方をされる。いろいろなスタート地点からうまく正しく話を進めて、時には他の分野で得られた知識を援用しながら、それぞれがゴールだと思うところを目指すという側面を言い表したものだろうか。「対象」がはじめにあって、そのたったひとつしかない真実の姿に近づこうというコナン的思想よりも、一応ゆるやかに方向性は定められているものの各人が好きなところから好きなように話を進めていけるマインクラフト的思想のほうが僕の性に合っている。だから理学部の扱う科目の中でいうと、数学がいちばん魅力的だ。しかし、数学は、着想においてはともかく、議論において飛躍を許さない。厳密性整合性に縛られるのが楽しくないわけではないが、やはり解き放たれたい瞬間もある。マゾヒストも四六時中鞭でぶたれているわけにはいかない。そんなとき、英語で本を読んでみたり動画を見たりしてみると、論理のしがらみから解放され、よい気分転換になる。

*1:日本語版のほうが詳しい場合ももちろんある。例えば日本そのものに関することなどはその傾向にある模様。