久しぶりのサークル活動

10時から久しぶりにサークル活動をした。出席者が4人*1だけだったので2回練習をやった後、のんびりしゃべっていた。雑談の中にも勉強になることがたくさん詰まっている。学期中の通常練習はもっと機械的でせわしなく進行、解散といった感じだが、本当はこうやって長時間を共有してぐだぐだと気ままに練習するひとときもすばらしい。活動を媒介して人と人とがつながりあっていくような、また逆に、人間を媒介して活動自体へ神経がじわじわ伸びていくような、あの感覚。放課後の教室に居残って数学を解き続けたときの、院試勉強会で缶詰になったときの、家でコーヒーをすすりながらふたりで関数解析を読み進めたときの、あの感覚。悪化した夫婦仲をつなぎ止めるという謂で「子は鎹」と言われるが、実は子育てという活動を通して夫婦そして子がつながりあって、またつながりあった親子が子育てという活動を支え返しているのだという、活動と絆の相互作用を想像せずにはいられない*2

 

17時に、ひとりが家で荷物の受け取りがあるということで解散した。ぼくはナイキTシャツの友人といつもの居酒屋に寄って、てっちゃんの串カツを注文しまくった。ひとりで6本ほど食べた。明日は連れとまた別の店で串カツを食べる予定になっている。串カツ、串カツ、串カツ。

 

공격!!

 

失礼しました。공격と出てしまいました。 

*1:うちふたりは国際大会に出るようなすごい人たち。もうひとりはぼくと同時期にはじめたのにぼくよりもはるかにできる人

*2:こうやって先回り先回り結婚やら子育てやらに幻想を膨らませる者こそが、その後実際に得たパートナーを妄想じみたイデオロギーによって圧迫し関係を破綻させる張本人となるのである……。知らんけど

ニケおじさん

先日、久しぶりに観光だと意気込んで、自転車で市内を縦横無尽に走り倒した。その日はまだ日中の日差しの厳しい真夏日だったにも関わらず、水分補給が不足していたのか、気づかぬうちに半分熱中症にかかっていたようだった。汗をよくかいたのでさっぱりしよういうことで、おしゃれなインドカレー屋で夕飯をいただいてから、ネットで評判の高い銭湯へ、やはりまた自転車に乗って出かけた。自転車と馬の違いは何か? 馬は乗る者に「駆けよ」とむち打たれるが、自転車は乗る者を「こがねば動かぬぞ」とむち打つ点にある。

 

ようやく着いた。この時点ですでに計18kmほどを走っている。数字だけ見るとたいしたことはないが、炎天下でアップダウンのあるコースを走行しており、かてて加えてぼくは腹痛を起こしていたので、もうかなり体力がそがれていた。早く湯船に浸かってあらゆる思考を放棄したいと望んでいるところである。ガラガラと入り口の戸を引くと、風呂から上がって帰りかけた丸刈りのおじさんがわれわれを見て声を上げる。

 

「ニケ!」

われわれの混乱に乗じて再び。

「ニケやな!」

ぼくが、「ああ、ナイキのことか」と得心するより先に、ナイキのTシャツを着ていた当事者であるところの友人が答えて言う。

「ああ、そうですね、ナイキ……」

「にけちゃうな、ナイキやな。ガハハ。君らはたらいてるん? 学生? 何大学?」

 

申し訳ないが今日だけは勘弁してくれと思った。ニケおじさんがナイキの友人に絡んでいる間にさっさと靴を下駄箱にしまい、券売機を眺めているふりをした。彼らの会話は続く。

 

「わしはな、早稲田やねん。早稲田の政経や。俺らの高校すごくてな、京大医学部18人。俺ともうひとりのヤツはもう全然あかんかったけどな。俺らなんかは偏差値76やけど、あいつら偏差値83や。ばけもんやで。君ら医学部か?」

「いや、医学部ぅ……ではないです……」

「なんや、医学部ちゃうんか! あいつらは恐ろしいな」

このような調子で会話の濁流に巻き込まれてしまった友人は半分怖じけながら、何とコメントしてよいやらわからず、かといって強制的に会話を切り上げる術もなく、途方に暮れていたと後から聞いた。ぼくはてっきりまあまあうまくやっていると思い、助け船も出さず、最後まで券売機とにらめっこしていた。


どうすれば角を立てず、ニケおじさんの気分を害することなく、またわれわれも早めに会話を切り上げることができたか。ぼくは「何度か問い返す」というのが最も有効な手段だったと思う。

 

質問する相手の回答を踏まえて、さらに疑問点を聞き直したり、補足の説明を求めたりする「問い返し」には、質問に輪をかけて考える力や主体性が要求されます。

質問する,問い返す――主体的に学ぶということ (岩波ジュニア新書)

 

「相手のことを知りたい」「何としても聞き出したい」という気持ちが湧いてこなければ、質問は一度きりで終わってしまいます。

質問する,問い返す――主体的に学ぶということ (岩波ジュニア新書)

  

例えば、「へえ、それはすごいですね。どこ高校なんですか?」と問えば、嬉々として「○○高校や。ほら、あの××いうところがあるやろ――」といった具合に答えてくれたはずだ。そうして2, 3のやりとりをしてから、「じゃ、入ってきます!」とでも言って切り上げれば、にけおじさんとしては若者と短いながらも自分への興味・関心・敬意を感じ取って生き生きとしたコミュニケーションをとれてうれしく、われわれも早くお風呂に入れて一石二鳥であるというわけだ。理論的には。

 

と困っていた友人に後から偉そうに講釈を垂れていたら「うるさいんじゃボケ!」と手足ぐるぐる巻きに縛られて浴槽に沈められた。ぼくはボケおじさんとしてその生涯を終えた。

 

「読書感想文」なんかよう書かんわ

『斜陽』を読んだ。この前は確か『善の研究』を読んだと書いた記憶があるが、それからいままでの間に何も読んでいなかったわけではない。いろいろ読みあさってはいたのだが、ぼくは作品*1そのものを「正しく」読解、比較ないしは検討し、それについて自分なりのアカデミック風の論評などを付け加える知識も技術も持ち合わせてはしないし、かといって勝手気ままな思いつき・感想を筆の赴くに任せてネットの海に放流する胆力も具えていない*2

 

「あまりにも見当違いなことを言っていたら……」という心配性が筆を止めてしまう。

 

知識を蓄え、技術を磨き、年齢を重ねれば、いつか「よっしゃ、一丁書いてやろうかな」という気概がじわじわと湧出してくるのかもしれない。またあるいは、あるすばらしい本に出会って「この本の書評は何が何でも書かねば気が済まない」という年相応の未熟な熱情が噴火してしまうことがあるかもわからない。

 

が、いまのところそういう気配はない。そういうわけで、読了した著作ひとつひとつについて個別に筆を執るという素地も激情もないという状態なのだ。

 

ただ、本を我流に味わい、知識を蓄えることはできる。新出漢字・単語などの国語の断片的知識から、歴史・思想という長大な体系的知識まで、あらゆるスケールで学び取ることはできる。またその間に並行して、読書に限らず人生のさまざまな側面をさまざまなタイミングで経験していくことになる。そうして長い時間をかけて人生が結晶化していく。混合物のような結晶だ。しかもその結晶は時時刻刻と変化し、その変化は不可逆的である*3。要するに、いま現在胸中にあることは、いま現在にしか書けないのだ*4

 

いま現在心裏に有する結晶の一面を書き出しておくというのは、そういうわけで有意義だと思う。後から見返してみても案外おもしろいと思えるものが書けるかも知れない。あるいは一瞥しただけで当時の幼稚さを察知し、脊髄反射でそっ閉じし、永久に記憶から葬り去りたくなるような粗末な代物が生まれるかもしれない。

 

同一の文章であっても、「いつの自分が読み返しているか」によって、評価は自ずと変わってくる。小学生の頃に書いた作文は、いま読み返してみれば穏やかな懐古の念を基調として、当時の自分のかわいらしさに思わず笑みがこぼれたり、反対に存外の早熟ぶりに感心させられたりすることだろう。ところが、中学生の頃の自分は、「ついこの間の自分」が書いたものだけに、文章の端々よりしみ出る、見るに堪えぬ幼稚な自意識をひしひしと感じ取って、引き裂いて燃やし尽くしてしまいたいという衝動に駆られるだろうと思う*5

 

以上のような事情から、さしあたっては個別の書籍について個別の感想文などを書くことはしないかわりに、書籍がもたらしてくれた読書経験を一旦ぼく個人の人生経験に統合してしまってから、毒にも薬にもなりそうにないごく個人的な(内面)生活を従来通りぼそぼそとつぶやいていくことになる。

*1:文芸に限らず新書・社会学系の教科書のたぐいも

*2:これについてはなんとなく30代くらいになればできるようになりそうな気がする

*3:極端な例をもち出すと、一度二十歳になってしまった者が、性欲も知らねば将来への不安も理解しない5歳児の内面世界を再現することなどできるであろうか

*4:これはこれで黒歴史を生み出す危うい考えかたかもしれないことは意識している

*5:こういったことは、例えば、小学生時代にトラウマを抱えている人には、同じようには感じられないかも知れない。もし万が一目に触れて嫌な思いをされたかたがいらっしゃれば、これはぼくというごく個人的な事柄を取り上げたに過ぎないことを言い訳にご容赦願うとともに、その不愉快を引き起こしたことを大変申し訳なく思う。あるいはこんな風にいちいち断り書きをすること自体が、読む者を信頼しない、慇懃無礼にあたる行為なのだろうか……

数か月ぶりにゲーム実況などを見ていた。据え置き型ハード自体長らく手許になく、実家にもっているのも最新でPS2ないしはGCという、やや隔世の感のあるラインナップである。ゲーム機事情もさることながら、ぼくはホラーゲームに興味があるにもかかわらず、おそろしくて自分でプレイできないという、ありふれてはいるが本質的な問題を抱えており、おそらくそのようなものはさくさく系の実況プレイをみて、お手軽便乗カタルシスを得んと欲するわけだ*1。とくにSirenシリーズやいくつかのフリーホラーゲームでは大いにお世話になった。ステルス系・逃走系の、すなわちこちらの戦闘能力著しく制限されているようなゲーム*2がぼくにプレイできる日は、おそらく今世においては来ないので、代わりにやってくれるというのは視聴者としてありがたい限りだ。


そのほかにも、レトルトさんのフリーゲーム実況はついつい見てしまう。フリゲくらいは自分でやれよという意見も脳内会議で提出されてはいるが、ダウンロードやら攻略上必要な作業やらに費やす時間と労力を惜しむ声がぎりぎり多数派を占めてしまっており、結局易きに流れてしまう。300円クエストも例に漏れない。おもしろい発想で、とくに2はよく作りこまれていると思う。続編くらいは自分でプレイしてみるか……。

 

*1:ぼくは実況者のびびりプレイよりも、そこそこ安心してストーリー展開を楽しみたい方なので、ガッチマンさんやキリンさんの実況を好んでいる

*2:ぼくの脳裏においては、最近のバイオハザードシリーズ(やデッドライジングシリーズ)などのいわば「ごり押し腕力爽快アクション」が対置されている

そこそこ上等な居酒屋で慰労会をやった。唐揚げ、天ぷら、野菜炒めとありとあらゆるものを注文し、その店でのむこと自体がすでにちょっとした贅沢であるにもかかわらず、あえてさらに贅をきわめようと1杯700円ほどする日本酒をがぶがぶのんだ結果、トイレに駆け込むハメになった。またやらかした。二度とアルコールを口にするものか。

 

これまで多忙を極めた生活が一気にゆとりに満ちたものになった。気楽だが、このままでは不健康で空疎なサイクルにのみこまれてしまいそうだ。何かまた有意義なもので埋めていかなければ。そういえば自転車で爆走したいと思っていた。友達とゆったり数学をやったり酒をのんだり過ごすのもいい。消費的にはアロマに興じるのも悪くない。白檀の甘くからっとしたアジアンな香りが恋しい*1。英語もしゃべりたい。

 

実りあるものにするには、休暇はあまりにも短い。わかってはいるが、いやわかっているだけに、捨てなければならない選択肢に未練が残る。よくばりなのだ。

*1:インドで伐採が制限されてから価格が高騰してしまって、長らく入手できていない

きみはなぜ

本日は終戦記念日である。この2日間で、何度胃に鉛を感じ、脚が棒になり、重力加速度が倍加したか知れない。あらゆるものから解放されたいまはもっと勉強をしたいという気持ちがある。しかし、先のことはまだ何もわからない。もう2週間すれば虚無の世界に生きることになるかも知れない。


「きみはなぜファンデーションからアルジェブラ」


ぼくは抽象論*1が好きだから、それはウソではない。グループもフィールドも、またセットもトポロジーもおもしろいと思った。ただ、それは物事の一面にしか過ぎない。

 

本当は、一度挫折したんです、と言いたかった。ぼくはかつて背伸びして入ったゼミでぼこぼこになって、遠くを見つめながらスッーと失踪した。エクササイズのためにほかのすべてを擲ったために、結局何も身についていないことを深く恥じた。そうして「普通の」数学から半ば逃げるようにして、消沈しかかった興味が向かう最後の砦としてファンデーションを選んだ。

 

幸いなことに、それはそれでおもしろいと感じられた。対象そのものが興味をそそるものだったのか、あるいはその場に漂う和気にあてられてか、ともかくなんとかやっている。もちろんこのままこの道の先にあるものも見てみたい。

 

長らく「数学のできる人は苦労しないでも自ずからできる」という思いを払拭できないでいた。心のどこかで、そんな思いにとらわれることはつまらないと感じつつも、いま自分が取り組んでいること一切がひょっとすると無駄なのではないかという恐れが、どこまでも才能という単語の引力を媒介していた。心が失速すると、いつも同じ点に墜落した。

 

今回、院試ゼミという努力の過程は確かに楽しかった。日がな一日屋内に缶詰めで、ときどき神経がいかれて鼻水の洪水が起こったが、ちゃんと少しずつ成長している感覚があったし、人とのつながり、会話、連帯感が何より心地よかった。かつて自分で勉強したことが思わぬ形で役に立った瞬間もあった。許されるならば、この感覚を持って今後も勉強を進めたい。

 

やっぱり数学は人と人との間にあると生きてくる感じがする。スタンドアロンを前提とした数学はしんどい。人より突出することよりも、むしろ人となじんでいくという方角に向かって、まあとりあえず先が読めるまでは、歩み続ける。

 

「一度挫折したけれども、みんなで勉強し直して、やっぱり楽しいと思ったからです」

*1:言葉遊びともいう

われわれが商店街で消しかすをまき散らしている間に、世間は野焼きなどによって先祖の霊魂を見送っていた。それが終わって、今日ようやく復活した図書館に先陣を切って攻め込み、われわれ式の闘争をしていた。昼は野菜たっぷりのカレーをご飯300gから500gに増量して食べた。調子に乗って増やしすぎたかと思ったが、600gでも同じペースで食べられそう。それから購買に寄って新たに消しゴムを補充し、再び図書館に戻った。行きがけの駄賃に試し書きのミニホワイトボードに조선로동당と書き残した(中学生か)。明日まだ残っているか確認し、残っていたら消しておく。

 

思えば書いては消し、また書いては消し、計算用紙は古紙回収に出すばかりの日々であった。最終的な「形」は無だが、そこへ至るプロセスひとつひとつがわれわれの脳裏に刻み込まれ、われわれの軌跡として蓄積している。

 

夜は早めに解散して、居酒屋で息抜きをした。てっちゃんの串カツにはまっていて、求められている本数よりも1本余計に注文してしまう。ニューゲームが素直な感性で等身大に生きることを教えてくれるよいアニメらしい。このごろNK-POPにかまけてすっかりおろそかになっていたアニメもほどよく蓄積されてきたころだろう。そろそろ消化していきたい。

 

攻撃戦だ。あの校舎は我らの決戦場なのだ。天下分け目の戦いに一命捧げよう。

 

影響受けすぎやろ。

 

モランボン楽団 飛行士の歌 日本語字幕 - YouTube

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