ブログを分けるかも知れない

このごろはこのブログが言葉遊びの冗談半分の日記、淡々とその日あったことを書くだけの記録のようになってしまっている。やっぱりぼくはこのブログのタイトルにあるような愛・死をはじめとした、いろいろの内的な経験を整理して、意味を求めるようなものにしたい。そのために日記用のブログを新しく作って、役割分担させることも検討している。一応「内省」などといったタグ付けを行ってはいるけれども、それでも同一ブログ上でごちゃごちゃとエントリをまぜてしまうのは便利ではない。不純物の割合の方が多いとなおさらである。

 

ただ、移行作業をどうやるかわかっていない(そもそも無料版のはてなブログで可能なのかどうかがわかっていない)ので、もしかすると書いてしまった分についてはそのままにしておいて、次のエントリから、という形をとるかも知れない。

 

以上。

MT技能教習と関西おばちゃん教官の豪放な励まし

明日、というよりも今日この後2回目の技能教習がある。あれは見た目以上にデリケートで難しい。クラッチの操作が半クラやらなんやらでトリッキーであることは承知していたが、いやいや、それ以前にアクセルの踏み方からして繊細さを要求される。ゴーカート気分でパシーンとアクセルを踏むと攻撃の勢いでエンジンが回る。ヴーン!! 発進時は1速に入れて1500rpmから2000rpmを維持して半クラッチを作るように、と指示されるが、ここからすでにちょっとしたゲームである。

 

それでも1回目にしては悪くないできだったのか、ニコニコと愛想のいい関西おばちゃん教官は「うまいやん! これなら女の子乗せても安心やな」「やっぱマリオカートも得意やろ」とほめてくれた。もちろん客観的に見れば、全体としてぎこちない操作だったことは、ぼく自身が自覚している。停止・発進にいちいち不穏な加速度Gを感じたし、一度は停止時にクラッチを踏み忘れてエンストを起こした。それでも細かいことを抜きにして、とりあえず目標自体の達成をもって、威勢よく「うまい」とほめて励ましてもらえたことがまずうれしかったし、加えて、おばちゃん先生がわざわざ照準を平成に合わせて話をしてくれていることが余分にうれしかった。ぼくはもう照れてしまって「ありがとうございます」とうつむいて笑顔をかみ殺して返事するのが精一杯だった。

 

できることなら、伝えたかった。教えてあげたかった。

 

マリオカートはオートマですけど」

連れの卒論の手伝いなどをしているうちに、自分が卒業するために必要な授業に出ることを忘れていた。いつの間にかこの曜日は1日全休であるという勘違いが発生しやすい思考回路になっているような気がする。何回の出席が必要と定められているわけではなく、最終的には担当の先生がいわゆる「総合的な判断」をすることで卒業の可否が決まるという仕組みである。いまのところゼミに参加してさえいれば特段追及されるということもなさそうだが、だからこそ、油断していると後で不意打ちを食いそうでおそろしい。

 

この人生で何度目かわからないが、また生活習慣がおかしくなってきている。こうなると1日のうちに気分よくいられる総時間が減ってしまうのはわかりきっているのに。しかもいましがたシャウエッセン1袋と札幌みそラーメンのカップ麺をたべてしまった。もうめちゃくちゃだよ。

小遣いを受け取る心苦しさを書きかけて

昨日はお小遣いを受け取るときの心苦しさを中途で書きさした。いまこの書きさしたという事実を記すのでさえ、相当なためらいをもってしている。借り物でもなければ、何かの対価でもない、使いみちも指定されていない、ただひたすら受け取り続けるだけの金。そのうちの何割が、どれそれに使ったと胸を張っていえるものだろうか。そもそも、何に用いられたのかを把握し記憶している分が、いったいどれだけのものか……いろいろと踏み込んで書こうとしたが、だんだんときりがなくなってきて、またそれ以上に苦しくなってきて、ついにやめてそのまま保存もせずウインドウを閉じてしまった。

 

自分で稼いだといえる金はいい。それがたとえ酒に変わろうが、パチンコに変わろうが、セックスに変わろうが*1、一向に気にしないし、気にするつもりもない。でも、それが親の稼いだ金、祖母に支払われた金だと意識してはそうもいかない。

 

それでも受け取るときは、そういう心苦しさを自ら添えて(とはいっても素直に感謝はしながら)受け取っている。受け取った後もしばらくその事実を反芻する。ぼくはまたこの小遣いというものを受け取り、そのうち多くはその場限りのちょっとした贅沢(ちょっといい日本酒、そこそこ上等なコーヒー……)といったものに消費されてしまうのではないか、いや、そんなことには使うまい、もっと自分への投資になるような物事に使うのだ……などと決めてみたりする。ところがやはり1日たつとそういったことは忘れて、自分で稼いだ金と区別がつかなくなっている。そして次に再び受け取るに至り、そこでようやく「前にもらった分は何に使ったんやっけ」という問いがはっきり意識される……。

 

ああ、やはり書いていると苦しくなってきてしまうし、たちの悪いことには、いくらでも書き続けられてしまう。もうやめておこう。もっと鋭くもっと簡潔に、もしくはもっと緻密にもっとねちっこく、自分いじめをすることはできるけれども、今日のこんな時間からそんなことをしだすと確実に明日にひびいてくる。今日はもうすでに終わっており、明日は明日でやるべきことがあって、それに心を向けてさえいればよく、今日にも明日にも関係のない話のために割くべき心の余裕などないはずなのに。以上、終わり、閉廷。

*1:酒はともかくパチンコや風俗にはまず行かないけれども

なんだかんだ言って、それって「自己弁護」じゃないの??

中高時代からの友人と飲んだ。彼は、今年の春から修士過程でうちの大学でドイツ思想を中心に研究を進めている。思想というからには哲学にも当然触れないわけにはいかず、したがって(まだ初学者ではあるようだが)ヘーゲルなどをやっているらしい。

 

哲学をやっている人との対話というのはなかなかに刺激的で、ときどき隙を突くように鋭い指摘を投げかけてくる。特にぼくの性(行為)に関するスタンス(1on1の世界ほど恐ろしいものはない、ぼくは連れがよそでセックスしてようが一切意に介さないし、むしろそれを奨励する……など)について語り、そのスタンスをとるに至った遠因として、例の出来事(要するに高校時代の例のあの人Mとの1年間)をあげ、その故にいま抱いている精神的欲求に基づく、すなわち単純な肉欲の範疇には収まらない、複雑な性欲を形作っているのだ、という仮説を表明してみたときに、「それはしかし結局、おまえが『現在とっているスタンスと性欲のありかたが(単なる個人の趣味として閑却すべきものではなくて)きちんと正当化されうる、されてしかるべきなのだ』という自己弁護に走っている可能性はないだろうか」という問いかけは、実に見事な切り込みだと感心した。

 

「自分が(あるいは思想家が)自己弁護に走っているだけではないか」は常にチェックすべきポイントであると彼は言っていたが、確かにその通りだと思う。これは「自己弁護に走ること」そのものを悪とすべきということではなく、「確かに自己弁護ではない」ということを可能な限り示すべきである、つまり「自己弁護ではない」という点に立証責任(burden of proof)があることを意識すべきだ、ということだと解釈した。

 

いや、なかなかにおもしろい対話だった。哲学科の人間はよく飲み会の席を設けたがるという話があったけれども、その理由の片鱗を見たような気がする。

信頼できる人たちに恵まれて、はじめて自分自身でいられる

信頼を置ける人たちがいてくれるということのありがたさを痛感する。はるか昔の漠然とした不安感・孤独感・雑踏の中で自分の居場所が見いだせないという苦しい状態から、少しずつではあるものの脱却しつつあり、それに伴って視界がクリアになっていくのを感じる。

 

人というものは丈夫で立派であるようだ。そうだ、ほとんどの人は、少しワーディングを間違えただけで発狂したり、泣き出したり、人生に絶望したりしないどころか、個人的な理由で少し距離を置かなければならないという状況があったとしても、「そうか、がんばって」と単純に受け容れてくれたりとか「さみしいけど、がまんする」と辛抱してくれたりすることすら(まるでそれが当たり前だと言わんばかりに)ある。ああ、たとい1日でも自分がその人の世界を留守にしなければならないことがあったときに、もっぱらそのせいでこの人は壊れてしまうかもしれないという気遣いをせずにすむという自由。そしてさらに重要なことには、世間話ほど飾らず気取らず、しかし内面の吐露ほど肩肘張らないような、たわいのない素直な会話、出任せの冗談を、「この表現は万が一にも侮辱的(offensive)ではないか」とか「ひょっとしてこの人にとっては傷ついてしまうような内容ではないか」というふうに四六時中気にする必要がないという安心。その中でなされる会話にこそ、ぼくははじめて「この目の前の人にとって本当に大事なこと」と「ぼくにとって本当に大事なこと」が、抑圧されない本当の「その人らしさ」がでてくるようだ。ぼくが父としてきた対話は、総じてこの自由と安心からなる信頼感に基づいて行われてきた。

 

「この人は、こんな程度じゃびくともしない」と信じられる人たちに恵まれて、はじめてぼくは、ぼく自身であることができるらしい。

 

いまぼくのまわりにいる多くのひとは、自分の足でしっかりと立ってくれている。ちょっとくらい押したり引いたりしても、おおよそびくともしない。現状においてそこまでの域に達しているか確信を持てない人もいるけれど(これはひとえにぼくの「信頼する能力」が育ちきっていないゆえである)、彼らだって、少なくとも立とうと奮闘してくれているじゃあないか。それがぼくにとってどれだけありがたいことか、言葉を尽くしたとしても、十分に言い表すことができないだろう。

大会に出て、予選落ちした。負けたのは試合後の感触で予想していたこともあってすんなり受け容れられたが、結果を見てみると僅差で負けていることが判明した。悔しいというよりも、パートナー(優秀)に対して申し訳なく思う。その僅差というのが、4試合のうちはじめの2試合でぼくが平均的な、つまり基礎基本を押さえたスピーチをしていれば十分に手の届く範囲にあったからだ。ほとんどファーストばかりで、セカンドでしゃべったことがあまりなかったから、何を言えばいいか判然としないうちに準備時間が終わってしまったのが原因だろう。それでも、たとえ同じ浅い内容を言うにしても、整理して、番号をつけて話すだけでも結果はちがっていたであろうと思うと、ひたすらもったいない。普段の練習でもよく指摘されるこの怠慢を、今回に懲りて、もういい加減に根治していかねばならない。


その一方で、パートナー(優秀)がいてくれたことはぼくにとってありがたいことだったかも知れない。誰かに対して申し訳ないという痛み、誰かに対して仕事を全うできなかったという未練ほど(ネガティブではあるけれども)強い原動力はない。自分ひとりなら「ああ、残念」ですむかも知れないがが、仲間に対してもそう言いきれるほど肝は据わっていない。


ただ、最後の試合では結構高い点数をもらえたのが個人的な救いだ。これははじめの2試合でもらった「セカンドは比較は気にせずにキャラ分析がんばればいいよ」というアドバイスが功を奏した。こうして手応えと手がかりがつかめただけでも次の大会に向けて前向きにがんばろうかという気になれる。がんばるなら「やればなんとかなりそう」がいちばんよい。