恥を味わい尽くして新たなる人生をハジめよ

ああ、お風呂で思い出してしまった。先週の演義でぽろっとこぼした負け惜しみを。ああ……ああ……ああ……。

 

いや……この感覚にグッと耐えつつそれを味わうことで新しい境地に達することができるのだ。恥ずかしい経験こそ、何度も咀嚼し、反芻し、その酸味や苦みを味わい楽しむに値する。

 

ほとんどの経験は時をこえることができず、回想しても当時以上に明瞭かつ鮮やかによみがえることはない。楽しい思い出なんぞ、せいぜいそのときがピークであって、想起にたえない。まあ1500人に1人くらいいる変な人は「ああ……あのとき楽しかったな……思い出すとだんだん楽しくなってきたぞ、ウオーーー!!」などと言って夕日の向こうへかけだしたまま帰ってこなくなることもある。そんな特異点を除けば、大抵の出来事とその思い出はチューインガムと同じである: 口に放り込んだときがいちばんおいしくて、数分もかんでいればかすかすになっている*1

 

しかし、日々の生活に物足りなさを感じ、刺激に飢えているのであれば、恥という感覚はうってつけである。かめばかむほど味わいを増す、たぐいまれなフィーリングである。

 

そしてその恥の感覚に飽きたとき、あなたは次の段階に進んでいるのである。そのとき、あなたはもはや過去の言動にとらわれてはいない。すがすがしい心持ちで新しいスタートを切り始めているのである。

 

「恥を知れ」が多くの場合で罵倒のための道具にされてしまっている現状は残念でならない。恥は人生を豊かにしてくれる、貴重な経験なのだ。「恥を知れ」は、私なら「恥の感覚を味わう素養を身につけなさい」という教訓とするであろう。

 

恥はいいぞ。

*1:もっとも、そのかすかす具合にワビだかサビだかの存在価値を見いだす特異特殊な考え方もできなくはない。そういうのは好きである