はじめてブルーマウンテンの豆を買った

やなか珈琲でかねてより気になっていたブルーマウンテン No.1 をついに、ついに買った。普段はミャンマーのシャンリーハイランド 100g あたり 800 円前後をメインにがぶがぶ飲んでいる。他の商品は産地、品種にかかわらずおおよそ 100g あたり 600 円から 900 円までが相場。ブルーマウンテンだけはなんと 2300 円。こいつだけ文字通り桁が違うやん、一体どんな味がするんや……。

 

おすすめどおり焙煎度 10 段階中 6 のダークロースト。もちろん豆のまま。

がりごり挽いて、マグカップに抽出、スプーンで軽く混ぜ、飲む。

 

中~浅煎り向きといわれる豆特有の酸味の要素を拾いつつも、舌を刺すような刺激はない。爽やかな風味。えぐみも感じない。苦みも強くない。さらっとしている。

 

……ここで自身の感覚と語彙だけで記述可能な限界に達してしまった。これまでコーヒーを漫然と喫し続けるばかりの人生だった。

商品説明を読む。いわく

広がるバニラに似た香り。甘味のある滑らかなボディ。カシスの様な後味。ジャマイカ政府系機関のコーヒーインダストリーボードで精選後、等級毎に選別され品質が保証された No1

www.yanaka-coffeeten.com

……なるほど。
「バニラに似た香り」……かはよくわからないが「甘みのある滑らかなボディ」といわれれば甘みは拾えるかもしれない。日本酒であれば「きれいな味わい」などと形容されるタイプか。「カシスの様な後味」はこの爽やかな風味のことか。

 

ところで「カシスのような」を使ったことがある人びと、ほんまにカシスを味わったことがあるのか。「カシスのような」といわれているものを賞味した体験から創作した想像上のカシスを頼ってそう評しているだけではないのだろうか。あの「誰かの人物評をするのに又聞きや噂でしか知らない人間をつい引き合いに出してしまうやつ」ではないのか。

 

閑話休題、味の批評は上記のごとし。で、 100g 2300 円出してまた飲みたいかというと、よくわからないというのが正直なところ。中価格帯のコーヒーにありがちな「探せば出てくるいやなところ」がぱっと見つからなかったというのは大きな評価点だが、ゲイシャコーヒーのような「なんやコレ!?」という意外性はまったくなかった。

 

結局、ぼくは普段アフリカによくある酸味系のコーヒーをそこまで飲まないのでほかに比較できる同系統の豆をよく知らない、要するに経験値不足なので、「ブルマンは日本人がありがたがるから高いのであって、それ自体にはさほどの価値はない」というような言説には賛成も反対もせずスタンスを保留する。

浅草を適当に歩く

彼女と浅草へ散歩に繰り出した。なんとなく腹を空かせながら縦横に張った商店街をめぐる。メロンパンの匂いに引き寄せられたり、もんじゃ焼きの店のメニュー看板を読んでみたりする。関西にいたころたまに行った京都の新京極やら寺町のようなノスタルジーを刺激する。ホッピー通りはとくにすごかった。いかにも下町らしい、半露店とでもいえばよいのだろうか、居酒屋の連なりは軒先までところ狭しと並べられた椅子と机を、老若男女の酔っ払いが占めている。どこからともなく新郎新婦を乗せた人力車がやってきて往来をかき分けていき、かきわけられた人びとは拍手で見送る。賑やかでいかにも楽しそうな場所だ。コロナが落ち着いたらどこかの店で一杯やりたい。

 

浅草寺も参拝した。やっぱり京都っぽくて新鮮味はなかったが、心が安まる感じがした。そういえばここで連れから借りた 5 円玉を供えたのだった。PayPay で返します。寺社仏閣管理者各位においてはキャッシュレス決済の導入をもっと積極的に検討・推進していただきたい。

 

それなりに楽しかったが、なんだか不完全燃焼の感もあった。下調べが足りず、どこで何をすればいいのかよくわかっていなかったからということにしておく。とりあえずいまいるところから行きやすい観光地・繁華街だからということで行ってみたが、行けば自動的に楽しいことが降ってくるということはない。食にせよ娯楽にせよ、自分で何があるかを認識して選び取らなければならない。次回に託す。

 

この日食べた昼ごはん。

カツ丼ご飯大 (1500 円くらい)

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10 時ごろ起きた。パン屋で無料でもらってきたパン耳をフレンチトーストにして食べた。カロリーを気にして砂糖の代わりにラカント S を使ったが、思ったほど甘みが出ず、結局後からチョコソースや黒蜜をかけて食べた。

 

血糖値の峠を越えてうとうとしていたら 15 時になっていた。一日中引きこもっているのももったいない気がしたので外へ出ることに決めた。

 

外出して街へ繰り出したものの、特にやることもなく歩き回っていた。空腹でもなかったが、なんとなくものを食べようということで一蘭へ寄った。かなり癖が抑えられていてコクがありつつも上品な味わいで、万人に受けるような仕上がりになっていることに気づいた。つい先日博多でだるまラーメンを食べたばかりだったが、そこではもっと露骨で濃厚な豚骨くささを楽しんだおぼえがある。

 

その後スーパーのライフで買い物をし、帰ってきた。このごろライフの格というかターゲットの客層というか、そういうものが上がってきている気がする。昔は関西発のフツーの庶民派スーパー、例えば平和堂みたいなものだと思っていたが、最近は優秀な PB を打ち出したり、いい感じの複合商業施設にはいったり、いち早くアマゾンと提携したり、ちょっぴりイケてるスーパーという感じ。

 

以前なら、きょうはなんにもないすばらしい一日だったとみなすところを敷衍して書けば上記のごとし。

------ 再開 ------

そろそろいいかなと思ってまた公開設定にする。大学の友人に、投稿する記事を逐一いじられるのがいやになって非公開設定にしていた。最後の記事が 2019 年 8 月 1 日とのことで、かれこれ 3 年近くやめていたことになる。


このところまた表現する場がほしくなっていたところへ、ゴールデンウィークがきてなんとなく暇を持て余し、とりあえずこのブログを再開することにした。毒にも薬にもならないただの日記を書くつもり。世の一般人がとりあえずツイッターアカウントを持つのと同じこと。第一に思考の荷物をおろしてすっきりするために書きたい。

 

ただ、どうせ書くならいわゆる「味わい」のあるものを書けたらなおよい。会社の新人研修で「ビジネスにおいては表現はつたなくとも内容が正確伝わることが大事」といわれるが、その反対をいく精神である。内容などはなからどうでもよく (毒にも薬にもならないことを書くんだと宣言しているのだから)、読者に何らかの読後感を与えるようなものが結果としてなっていれば幸いである。例えば、ダイエットのためじゃない、道に詳しくなりたいわけじゃない、人との出会いに期待しているわけでもない。ただ歩き終わったあとの爽やかな感覚が好きというだけ。そんな理由で散歩をするという人もいるだろう。文章を読むという行為にも同じような作用があると思っている。


日記をやめていた間のアップデート。ぼくは社会人になり、彼女と同棲しはじめた。 2020 年に COVID-19 が爆発的にはやってからほとんどテレワークで、入社してからほとんど会社に行ったことがない。部屋にこもって気ままに仕事をしているので、学生気分を引きずっている。もう少しパーソナルな興味として VTuber のぽんぽことピーナッツくんがおもしろく、日常生活の選択に影響を及ぼしている (例: 冷凍たこ焼きを食べまくる)。

記念日

2019年7月31日(水)が記念日になった。なんの記念日か? つれ(ハンネがへびみたいなので以下へびこにします) *1がジムに入会したのである。へびこの運動嫌いときたら筋金入りで、おそらく階段10段と、10分まちのエスカレーターなら、エスカレーターをとるんちゃうか、というレベル。中高時代はいわずもがな文化部である。ただし中学時代はブラスバンド部に所属しており、部活動でランニングやマーチング(これは結構きつい)をさせられていた模様。なまじ意図していたよりも運動をしなければならない場面がおおかったぶん、自分の運動嫌いを再確認、強化していったのではないかと察せられる。ぼくは運動の楽しさをおしえたくて自転車やらボーリングやら誘ってみたものの、あまりいい思い出にはなっていないようだった――ビワイチ1日め、雨の日の夕方、30km走って湖の北端にあるひとけのない上り坂の前、尻の鈍痛と機能を放棄した脚、立ち尽くし冷えるほかない体、レンタカーに自転車を積み込んでまわれるのなら、寿命を20年差し出したって惜しいものか――賤ヶ岳の絶望を這い上がり、ついに完走した彼女は全世界に感動の嵐を巻きおこし、翌年ノーベル平和賞を受賞するもこれを辞退。メディアに取材・報道自粛を要請したため、このことは2019年現在、人びとの記憶にはもはや残っていない……いや、病院は間に合ってます。

 

へびこがなぜジムへ通うようになったか? アニメ「ダンベル何キロ持てる?」のおかげである。へびこはオタクなので、ぶち上がるアニソンと2次元のgood-lookingキャラのセットが非常によく精神に作用する。へびこはパリピとかチャラ男とかギャルなどを苦手としているタイプ(もっとも、ぼくを含めた周囲の人間はだいたいそう)なのだが、そんな彼女があろうことかラップに興味をもったのもアニメの影響である。一里ぼっちちゃんが校舎裏で不良たちとマイルドセブンをふかしてるのを発見するくらいの驚きである。いまはメビウスか。「人生なにがあるかわからない」を6年にわたる彼女の変化を通して感じつづけている。思えばビワイチの前に弱虫ペダルを見せておくべきだったのかもしれない。

 

ダンベルはちゃんと初心者を引きずり込もうという意志をもって作られているのがよい。ひびきちゃんの 160cm 55kg というBMIにすると21.5のリアルな数字、どか食い、はち切れる水着、ナンパまち。ちょいちょいサービスシーンをはさんでノンケ男性視聴者を釘付けにする一方で、体型に関して悩める女性視聴者にとっては親近感のわきやすい主人公なんだろうと思う。

 

ぼく自身以前5キロ以上太っており(160後半65+kg)、友達と階段を上り下りするたびに「ちゃんと前みて。お前がコケたら俺らが危ない」と言われていた経験から言えるのだが、おそらくあれくらいの体型はギリギリ自分をごまかせる。鏡を見るときに気持ち顎を引けば一人称視点で二重顎は消えるし、少し背筋を伸ばせば段腹でなくなる、それくらいのライン。もちろんリラックスした自然体の状態で顎の下はゆったりつまめてしまうし、意識していないときでも座ったときになぜかお腹にバックルのひやりを感じているから、結局は自己欺瞞にすぎないことを肚の底でうすうす承知しているのだが。

 

実際にやるイメージを持ちづらいジムでやる種目と、自宅でいますぐできる種目を併せて丁寧に紹介してくれているのがとてもうれしい。また、現金で親しみやすいひびき、ストイックでクレイジーな朱美、あらゆるトレーニーの背中をやさしくしっかり押す街雄……硬軟ないまぜのバランスのとれた空気が居心地のいい教室のようで安心できる。キャラひとりひとりの性格もセリフも立っているからアニメとしても退屈しない。音楽はキャッチーでありながらあまり頭を使わずきけるから、筋トレソングとしてよい。スケベ要素も含めてたいへん教育的だと思う。

 

へびこがジムに入会してがんばるというと俄然こちらもやる気が出る。学校付属のジムはあまりに換気が悪く、すぐに酸欠でくたばってしまうので通わなくなってしまったが、自宅での自重トレは継続してやっていきたい。がんばるぞ。これからが楽しみだ。

*1:文句があったら直接連絡ください

自分を騙る者から催促があったので投稿。催促されてそれに従っているようでは、どちらが"本物"か、議論の余地が残る。もっと頑強な自我を持たねばな。

 

最近はYouTubeメダルゲームで1枚から増やすシリーズを見るのにはまっている。小学生の頃に一時期自分もやっていた。そしてたいてい負けていた。地元のゲーセン、というよりもスーパーのゲームコーナーはしょぼかったので、メダル落とし数台とパチンコくらいしかなかった。メダル以外はクレーンでお菓子を落とすゲームとプリクラだけ。ちなみにそこで高校生のときに当時の彼女ととったプリクラがこないだまで大人のおもちゃ箱に入っていた。いま探してみたら見当たらなかった。プリクラはちょっとまずいの(女装とか)がときどきあるので、下手に見失うとあとでほかの誰かに見つけられたときに困る。困ると言っても「困ったな」「まあいいか」といえば終わる案件ではある。恥ずかしい出来事はだいたいそうなので、あまりムキになって頭をかんかんにしてはいけない。乗り越えられるか乗り越えられないかは気持ちの問題。恥は人生のスパイス。感情の波を感じ、それはすべての人類が体験したものと同型であることを思い出せ。みんないっしょ、同じ穴のムジナである。

 

閑話休題。昔はお金がないものだから、負けた後はしばしばみんなで筐体の払い出し口に置き去りにされたメダルを集めてまわっていた。そんなに稼げるわけではないが、自販機の返却口よりはずっとよい確率で回収できた。メダル落としゲームを台パンするのもかなり有効ではあるのだが、一度ムキになった友達のNくんが力加減を間違えて店内にアラームを響かせ、全力猛ダッシュ退店を余儀なくされてから誰もやらなくなった(良い子のみんなはやめようね)。それから大人がパンパンに詰まったバケツを2つ3つ景気よく並べているときに周りをうろちょろしていれば、まれにおすそわけをもらえることもあった。いずれにせよ負けた。ところでこのNくんには、デュエルマスターズで遊んでいたときに、罰ゲームで乳首を洗濯バサミやクリップではさまれた思い出がある。洗濯バサミはよかったが、クリップは痛くて半分キレていた。

 

ある時期からうちの校区の小学生は子供だけの来店は禁止になったという噂もあったが、真偽は不明である。結局親が買い物している間の暇つぶしという役割を期待されている以上、むやみに子どもを追い出すわけにもいかなかったのだろうと思う。隣のフードコートでクレープをたべながら作戦会議(目をつぶってコインを投入したらうまくいった、のようなオカルト・ジンクスの類)をして、コーナー内ではできる限り他人のふりをしていたら、店から声がかかることはなかった。

自我薄弱は人生の敵だ!!

就職活動も佳境を迎えてきたということで、ブログを再開したいと思っている。ここしばらく非公開にしていたのは、就職活動を通じて自分のブログが不利にはたらいてしまうことがないように身ぎれいにしておく、それだけのためだったのだ。


就活をやっていて、院生として生活をしていて、ツイッターをしていて、人と話してみて、とにかくあらゆるコミュニケーションを通じて見えてきた課題。それは環境に左右されない軸たる自我、エゴの薄弱さだ。


ぼくは以前から眼前の人に感情的に寄り添いつつも、理想や合理性を見失うことなく、バランスを保って傾聴できるものと自負していた。そして昔はその評価はそう間違ってはいなかったとおもう。もちろん当時なりに、若いなりに、ではあるけれども。


ところが最近はどうも感情的に寄り添うばかりで、目指すべき場所や穏当な着地点を見いだせていないまま話を聞いているばかりになっているように思う。なぜか。エゴが足りてないからなんじゃないか。向かうべき場所を見いだせないことは、すなわち、志向する力、かくありたいと希求する力が相当弱っているということなんじゃないか、と思うわけだ。


どうしてこうなってしまったかというと、それはもうこの何年もの過ごし方が悪かったというほかない。家に引きこもって、ネットで動画やブログを、ろくな定見も持たず消費的に見漁るばかりだったからだ。そうではなくて、まずしっかり外に出て、歩いて、自転車にのって、そうして学校で友達とよもやま話をしたり、カフェで勉強してみたり、いろいろ観光してまわってみたり、バイトをいろいろやってみたりして――とにかくパソコン以外の刺戟をかわるがわる取り入れるべきだった。モニターの光とスピーカーの音という、一方向からの刺戟ばかりで自我をすっかり鈍らせてしまった。


もとからぼくは濃密で強固なる自我をもっているわけではない。中高生あたりまでは、ぼくは自分をそれなりにしっかり自我をもっていたつもりだったけど、それは所詮親の教育の賜物、というよりも親の影響下にある家庭内にいることでようやく保たれていたものだったときづいた。ぼくはもう以前ほど人の善性や理性、愛といったものを信じることができていない。これは危うい人から身を護るという観点からは決して悪いことではない。だが、そもそも自分の身を委ねるあてがないというのはなかなか厳しいものがある。何より周りにいてくれる人たち、支えてくれる人たち、愛してくれる人たちに「ありがとう」と心から感謝をしたいのだ。それはやはり人の善性を前提としなければ、周囲の存在も、支援も、愛情も、すべて損得勘定(損得"感情")によるほかないように思われてならないのだ。


「君は親に洗脳されている。性善説で人生を滅茶苦茶にされたんや。親の顔を一発殴ってみたらどう」と、私の親を批判し、その"呪縛"から解放されるために暴力をすすめる人もいる。確かに、性善説だけでぼく個人としての人付き合いのしかたを規定するのは危ない。そしてぼくが引っかかった落とし穴はそこにあったと思う。「ぼくの愛が通じて、彼女がもはや『誰にも愛されていない』などという惨めな虚構になずまずにすむようになる日がきっとくる。それまで全力を尽くし続ける」これが間違いだった。特別そのように意識していたわけではないが、「相手の性は十分に善であるので、私個人の愛情をもって不幸を取り除くことが可能なのである」というロジックであるわけだから、これはいまになってみれば相当な思い上がりというか、世の闇、心の闇についてあまりに無知だったということになる。


ところが、やはりぼくは、ぼくと良好な関係を築けている人たちの善性は信じていたい。そして人の性の善なることも信じたい。そうでもしなければ世を愛することができなくなってしまう。世上の個人個人にぼくの愛が通じなくてもいい。ただ世界中のいかなる形であれ苦しみ悩める人のために祈る心を持ちたい。人の性のあまねく善なることを否定してしまうならば、「性の善なる者」と「そうでない者」とに生まれつきの区別、断絶があることを認めることになって、「そうでない者」をバカで未来永劫救いようがない残念な層として、無視しなくてはならなくなる。そんなんいややわ。ぼく個人として彼らにできることがなかったとしても、せめて彼らに祈りを捧げることくらいはしたい。そしてぼくはそう思えることに誇りを持っている。もし、こういう価値観を洗脳の結果と一笑に付し、「親を殴ってみては」という提案を引っ込める気がないのなら、ぼくの拳が突き抜けるのは親の頬ではなく、あなたの顎の先端やでな。脳震盪でも起こして、軽率で無礼な提案をしたことをどうぞ反省してもらいたい。


頭がはたらいていない状態で書き始めたから、話がそれてしまった。要は、いまぼくの自我は弱くとも、親が教えてくれたものはいまだ大切なものとして胸の奥底にしっかりあるということを確認したかった。話を戻すと、ぼくの現状の課題は自我が薄弱だということ。そしてこれは受動的で消費的なネットライフにいりびたる限り、抜け出すことはできない。だからもっと外にでます。たとえそれが遊んでるようでも、きっと人の脳はよい刺戟と受け取ってくれるにちがいない。


そろそろ脳も生活リズムも限界だからねます。