ニケとゼロとで平壌冷麺をいただいてきた。ちょうど昨日は平均的な人間の平熱よりも2度ほど高い、発狂ものの猛暑日だったので、気候を含めておいしく食べられた。スープは酸味がきいてあっさりで、麺はおそらくこれまでの人生で食べてきた中でいちばんシコかった。スペシャルを注文したので麺の上に焼き肉がのっていたが、それもおいしかった。また神戸によった折に訪れたい。


その後スパワールドに行こうとしたが、同様の考えを持った人びとがビッグサイトなみの列形成をしていたのでわれわれ3人は諦めた。プール・温泉のためにオタク並の忍耐力を発揮することはできない。ちょっとご休憩ということで西成の喫茶店でアイスコーヒーをいただき、店のおばちゃんの素敵な香水の香りを感じながらオルタナティブを相談する(文字通りの意味。料理組合飛田新地に近いが、別の意味があるわけではない)。住之江の温泉施設に行くことになった。普通のサウナと塩サウナを1回ずつやった。やはり塩を塗ると上がったあと肌がすべすべになっているような気がする。


それから梅田で串カツを食べた。ビールを800mLハイボールを1杯注文したあとにむちゃくちゃなノリで冷酒を3瓶開けてしまった。頭が痛くなり、後悔することはわかっていた。わかっていながらそんなアホなことは、ひとりでできるものではない。けど楽しいから乗せられてのんでしまう。そしてこのことを新鮮に感じてわざわざ書き立ててしまうのは、すなわち孤独を長く経験しすぎてしまったということなんだろうなと思う。

ぼくはどんな文章を書くことにやりがいを見いだしているのか

他者に宛てたものを書くことのおもしろさ、そしてやりがいをかみしめている。ごく簡単なメモ書きから、仕事の報告書、心をこめた礼状、じっくり取り組んだ課題のエッセイ……。一方でこのブログで書くのはとてもしんどく感じてしまう。どうして同じ「書く」ことであるのにも関わらず「他者宛」と「ブログ」ではこれだけの差が開いてしまうのか。

 

これまでこのブログで投下してきたエントリの99%は自己完結・自己目的の文章であった。誰かに読んでもらうために書くのではなく、自身の心の整理のために書くのである。(1)過去に自身に起こったことが現在のわたしの自我に及ぼす、名状しがたい関係になんとか試みの説明をランダムな角度でつけ (2)その蓄積を改めて吟味し、「だいたいこんな感じやろ」という自分自身に関する理論をつくる……それによって(3)深い自己理解、「私とはこのような人間だ」という確信を強くすることができるだろう、というのがブログを立ち上げた意図であった。

 

しかしながら、こういった作業をたったひとりでやりとげるのはきわめて困難なことだということを認めねばなるまい。というのも実際にぼくができているのは、高く見積もっても(1)の「過去に自身に起こったことが現在のわたしの自我に及ぼす、名状しがたい関係になんとか試みの説明をランダムな角度でつけ」ることしかできていない。それも厳密には、現在感じている苦しみを安直に――試論らしい試論、もっともらしい説明もなにもなく――ただ投げやりに過去のせいにしてみているだけ……と書いている最中の自分自身がそう感じてむなしくなるようなものばかりである。我流でやる自己分析はなかなかうまくいかない。うまくいかないのであればもっと時間と労力をかけて精進しよう……という気も起こらない。書いて、書きっぱなし。もうほとんど振り返らない。そんな有様だ。

 

ところが、必要性を伴った他者宛の文章を書くことは本当に充実感をもたらしてくれる。それは"ことばのつかいかたこだわりをもつ私"の興味(自己志向な欲求)と、"これをするのは他者のためである"という目的意識(他者志向の欲求)が両立しているからだと思う。これは現在ぼくが読みかけているGritにおいても指摘されていることだが、自己志向並びに他者志向の欲求を同時に満たしてくれる仕事は、いずれかかのみを満たしてくれる仕事よりも、貫徹しやすい。それはまあ、「この仕事が好きだし、人の役にも立っている」と感じていれば、やり遂げようと自然と思えるものだという主張は、感覚的にはほぼ自明の理であろう。

 

結局「人のため」と「ことばへのこだわり」の両者が結びついているからこそ「他者宛の文章」は大抵充実感をもって書けるのだと思う。

 

そしてこれを敷衍してみると、同じブログで書く文章でも、自己完結・自己目的であることに執着せず、このブログを書き続けることで「人のためにもなっている」という感覚をもてるようにすることが、エントリを生き生きとうみだすための鍵であろう。幸いにも、自分ではしょうもないと思っていたぼくの文章を「おもしろい」と言ってくれる人はいる。そのうれしい、ありがたい言葉を、自分勝手に感じるむなしさ、アホらしさで薄れさせてしまってはいけない。まず単にもったいないし、それ以上に、実はそう言ってくれる人の心をまっすぐそのままに受け取り損ねているということを意味しているからだ。

 

ぼくはそうして親しい人が自分にかけてくれることばを大切にしないような人間か?

 

否、決してそうではない。


このごろはかなり忙しいから実現できるかどうかはわからないが、少なくともぼくはこのブログをそうして「読んでくれる誰かのため」にも書いていくことにする決意だけはしておく。

 

Grit: Why passion and resilience are the secrets to success

Grit: Why passion and resilience are the secrets to success

原著。ぼくはこっちを読んでいておもしろいと感じる。 
 
 
やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

 

こっちは邦訳版。ぼくは未読。個人的には帯の宣伝文句が気に入らない。「最強」は百歩譲ってよしとしても、「最速」のメソッドでは決してないので。カスタマーレビューを見ているとだいたいそのせいで低評価をつけているようだ。もったいないし、このキャッチコピーは本当に中身を読んだ人が書いたものなのか疑問をもつ。

やっぱり誰かと一緒にわいわい数学をやっているのがいい。ホワイトボードを囲んでする問答のおもしろいこと。図書館でめいっぱいやってから外に出た瞬間頬にあたる風のなんとさわやかなこと。みんなで一緒に食べるタイカレーのおいしいこと。

 

そうしてみてぼくにはやっぱり孤独なたたかいは向いていないんだと、悲観を交えることなく淡々と受け止められる。仲間を得て、失って、もう一度得て、そのありがたさを痛感する。

 

このささやかな、しかし実は貴重な幸せを糧に、院生生活を送る。

台北旅行 (1日目)

前回のエントリからずいぶんと間があいてしまった。無事免許を取得できたりなんやかや細かいことはいろいろあったけれども、個人的ビッグイベントとして2泊3日の台湾旅行があったのでそれについて書く。

 

卒業旅行(今度こそ本当に卒業!)として、連れと台北あたりを観光した。われわれの性格上厳密なスケジュールを自分で立てたところで計画倒れになるのは目に見えていたので、地球の歩き方の例から実際の状況に応じて引き算し、時間が余ればネットなどに書いてあるおもしろそうなところを訪れてみるという戦略をとった。例えば、朝何時に起きてどこどこへ行くという計画をとると、どうがんばっても二度寝をしたいという欲求と衝突する。そのようなことを避けたかった。

 

第1日

 

まず関空から桃園空港。実はここが最難関で5時起きからの6時前の電車に乗れたらこの旅行は成功したも同然だ。ふたりとも徹夜でがんばった。えらい。一旦飛行機に乗ってしまえば、うつらうつらしているうちに着く。

 

着いたら適当に4万円くらい両替をして、悠遊カードを買ってMRTに乗る。悠遊カードは日本で言うICOCAやスイカにあたるICカード。そしてMRTは高速鉄道。空港から台北市内までの40kmを35分で駆け抜ける。車内はとてもきれいで、キャリーバッグを置く荷台がついており、トラベラーフレンドリーな印象を受けた。公共交通機関が清潔だとやはり安心する(小汚いなら小汚いなりのおもしろみはあるが)。

 

ホテルは台北駅の近くにあった。シャワーおよびトイレがガラス張りになっていて、いわばきれいめ路線(?)のラブホテルのような雰囲気だった。残念ながらAVは配信されていなかったしコンドーム等も用意されていなかったので、多分そういうことではない。

 

とりあえず小籠包などを食べに行く。当然のようにおいしい。もっというと日本でもお金を出せば食べられそうな、常識的な味。このまますべてが予想の範囲内におさまってしまわないかという懸念はあったが、一発目の食事からインパクト追求路線をとらなければならないわけでもなし、満足しておく。

 

世界8位の超高層ビル台北101を見に行く。天候が悪く、あまり遠くまで見渡せなかった。建物の中には巨大なボールがぶらさがっていた。……そう言えば台湾も日本と同じく環太平洋造山帯に含まれていて、地震が頻発する。現につい1か月前にも大きめの被害が出ている……なるほど、そうかそうかと納得していたらwikipediaに「いや、風圧対策やで」と書いてありました*1

 

ここまでそこそこ楽しんではいたものの、無難な見所ばかりまわる普通の観光をしていたのでは終われないというハングリー精神を発揮して、とうとう夜市にいった。いかやカキといった海鮮系の屋台、あげ団子の屋台、丸鶏のローストをつるした屋台、チョウドウフ料理の屋台などが肩を並べているから、一歩ごとに鼻に入り込んでくるにおいが変わっておもしろい。もしこれが2泊3日ではなく長期滞在だったなら腹を壊そうが熱を出そうがかまわずあらゆるB級グルメに挑戦していただろう。いや、もしかするとまだ台湾という初めて訪れた国に対して身構えていたところもあったかも知れない。いくら物好きを自負しても、やはりびびるときはびびる。危ない香りのする誘惑を通り過ぎて、(屋台ではない)カキオムレツの有名店に入ることにした。ついでにデザートに「ライスケーキ」くらいつもりで「米糕」(ミーガオ)を頼んだら豚の味ご飯が出てきたので、カキオムレツといえばやっぱ米糕でしょとわかったふりをしながらおいしくいただいておく。

 

徒歩でホテルに戻る。連れは早々に入眠。ぼくはさっぱりしようと前述のガラス張りのシャワールームに入ったのだが、若干立て付けが甘かったらしく閉じ込められてしまった。しばらく孤軍奮闘するもこのままではらちが明かないと判断し、壁面をこんこんたたいてぐっすりお休みになっている連れを起こして協力を要請した。全裸で助けを呼ぶぼくを見て周章狼狽する連れを見て、ぼくは他人事のようだが内心少しだけ愉快になった。それが心理的によいほうにはたらいたのか、数分間の奮闘の後、ついに努力は報われ、脱出に成功した。

 

第2日以降は気が向いたら書く。明日からはニケやゼロ(両者とも当ブログ既出人物)と四国に行く。

*1:しかし壁面の説明書きはいかにも免震のための設備と書いてあった。よくわからない。とにかく揺れに強いらしい

1月下旬から2月第1週までゼミの仕上げにあくせくしたり、名古屋やら東京やらへ飛び回ってはなはだ忙しかった。そのつけがいよいよ回ってきて、東京から帰ってくる日にインフルエンザを発症した。B型だった。帰宅してから1日待って病院に行った。特効薬を吸入して熱は割とすぐにとれたが、のどの痛みが火でも噴いたのかというほどひどかった。痛さのために夜中に目が覚め、耐えきれず、毎食後に飲むべき痛み止めを追加でのんでごまかしたほどだった。いまは咳のしすぎで腹筋が痛いほかはありきたりなレベルの苦痛ですんでいる。

 

ブログを更新していない間にふと思い立った。目の前の苦痛の由来をもとめて過去に遡及するのはだいぶん控えたほうがよいのではないか。問題は一過性・一時的のものではないという重みがつくため、他人の同情を買い支援を得るには確かに役に立つことしばしばではある。が、問題解決のためには自分でつけたこの重みがまさに足かせになる。絡まった糸のうちいま重要な1本に集中すればよいのに、全体をほどくべしという問題にすり替えてしまってどつぼにはまるような感覚とでもいえばいいだろうか。

 

さらにいうと、大抵その問題とやらが本当に問題なのかもあやしい。確かにある種の傾向が認められるといえば認められるだろうし、その根源を追求すれば好むと好まざるとに関わらず、どうせさんざ繰り返し持ち出してきた「わかりやすい」着地点しか見いだせない。それで一見取るに足らない痛みをいわば歴史によって権威づけて大げさに騒ぎ立ててしまうのだが、ある種の楽しいことの最中もしくはその後しばらくはだいたいさっぱり忘れられていられるし、思い出しても何の痛痒も感じない。

 

裏返すとこれは楽しいことが切れるとだいたいぶり返してくるということを意味するのだが、これをどうとらえるべきかは人生をどういうものだとみなすかという価値判断の話に近づいてくる。つまり人生とはショートタームな事柄の蓄積(消化)であって、その場その場をどうしのぐかという問題にほかならないと思うか、はたまたストロングゼロなどで毎日をごまかしながら生きるのではなく、むしろ長い目で見て後悔のない一生をつくりあげるべきだと思うか、みたいな。これはまあ居酒屋で友達とでもやればよい話。とりあえず自分で考えておけばよいのは、そういう痛みを忘れさせてくれる楽しみをどうやって見つけるか、その幅を広げるか、その質を高めるか。

最近は至極内容の浅い、自分で読んでいて薄ら寒いものしか書けていなかった。気づいたら世界の周縁部にぽつねんと座っていて、何事かなさねばならないとか、人生を構築し直さなければならないとか、そういった義務感とも使命感とも自我の欲求ともつかない(あるいはこれらはあらゆる精神現象の責任をエゴに押しやるいまの世の中においてはすべて同一視されるであろうものたちだが)ものをごちゃ混ぜにして放置してきた結果だ。完全に忘れていて放置していたのでも、わざと先延ばしにしたのでもなくて、何とかけりをつけよう、改善しようと神経は忙しくはたらいていたつもりが、知らない間に問題の核心を迂回するためのむなしい取り繕いにすり替わっていたことに、後から気づくという感じ。

 

取り繕いの行為そのものによって自分自身に対して「自分はなんとか状況を打開しようとがんばっているから」と不実の言い訳をしていたようにも思われる。その不実とて明瞭に悪意を以て企図した不実ではなく、ただほかになすすべの見当たらないままになし崩しに陥った状況をうけいれるための、事後承諾の方便として用いた不実なのだろう。確かに葛藤はある。あるにはあるが、自分で自分の葛藤を追跡することができない。何と何との間で揺れていたのかわからなくなる。しまいに疲れて自分のアホさ加減に嫌気がさす。


ガソリンを食ってエンジンを回そうと努めたし一応回ってはいるのだが、そのエンジンはどこへも動力を伝えていない。ヴンヴンと回って、無意味に煙を排出して、おしまい。人生の何の役にも立っていないのをうすうすわかっていながら、その考えを追い出すためにいっそう無闇にエンジンを回す。回す。回す。書く。書く。書く。そうして目の端で世界がなんとなく動いていくのが見えている。錯覚して自分も何かしら意味のあることをやっているような気分になる。親が仕事をしている横で物心のついていない子どもがそのまねごとをやってよろこんでいるのと選ぶところはない。いや、子どものまねごとは真に無邪気で当人がよろこんでやっていることだから、意味に満ちあふれている(いつか分別が芽生えたときに役に立たないことを悟って多少落胆するかも知れないが)。

 

何もかもうまくまとめようとしてしまってるやろ、君。まとまった結果や意味を性急に求めてしまっている。とりあえずやってみて、まとまらんかったらまとまらんかったわワハハ次行こでええやないか。何をそんなにあわててるんや。誰も見ていないのに取り繕おうとするのはなんでや。そんなに人生がうまくいっていないのがこわいんか。自分でうまくいっていないととりあえず認めてしまって、しかるのちにしかるべき善後処置を施そうという気概はないんか。そんな精神的に老け込んだと決めつけてしまってええんか、なあ、後何年生きんなんと思っとるんや。そんな狭い部屋の隅に縮こまって、何も苦しそうに見えない世間と外面だけ合わせててもどうしようもないからな。

 

ああ、やっぱり心の中で定まっていないことを書き出すのは、私においてすら心許ない心地がする。ましてブログで書いてさらしておくのはもっと心がぐらつく。以前自分でかいた絵や文章などと直面するなら、まず自分ひとりで静かに向き合わなければならない。一目見たときに反射的に赤面して目をそらしたくなるのをこらえていると、だんだんと当時のことを思い出してくる。当時それをどれだけがんばってかいたか、あのときの自分は真剣そのものだった。後から汚点扱いされるなどとは知らずに打ち込んでいたではないか。

 

もしかすると汚点扱いされるかも知れないという不安をついにはねつけた上でそれをやっていたかも知れない。このときにこんな風に過ごしていた自分を恥だと思わないだけの良心をどうかそなえていてほしい、こんないまの自分を肯定してくれるのに十分な器を未来の自分にはどうか持っていてほしい。つまり、未来の自分が人生という大きな枠組みにおいて失敗していてほしくない。すりきれてくたくたになって、現在に至った原因である過去を拒絶しなくてはならないような、憐れな人生を送っていてほしくない。そんなメッセージまでもが連想される。

 

いや、ごめんて。なんとかする。なんとかするわ。ちゃんとまっとうで充実した人生を送るって。そんな時空を超えて膨らんだ期待をどばーっとかけんといて。

 

そう言いながら自分からかかりにいってるやないかという分析もある。そうやって自分から苦しみに突っ込んでいくのが好きやな、昔っから。

 

 

数学は人生を豊かにしてくれるが、人生そのものを成り立たせてはくれない――というようなことを思って電車にのっていた。こと人生が自分の手から滑り落ちて、転がっていくのを追いかけるのに精一杯であるときにやれるものではない。数学から暮らしを整えるという境地に達することができればありがたい。数学をやらなければ具合が悪くなるというのはかっこいいが自分が経験するにはちょっと行き過ぎの感がある。とにかく、うまくいっているときには大変興味深いものであるには違いないが、平衡を失って頭がそちらへ順応しないときには真っ先にリストラされる地位をいまだ脱していない。

 

もっとも、数学を通じたコミュニティの広がり、人との交流が、ハリとうるおいと刺戟を与えてくれることには相違ない。しかしこれは家に独座して数学書とにらめっこしていて得られるものとは峻別されなければならない。これを見誤って苦しみのうちに起臥したのが前3年間ほどである。人との交わりよりも先に学を入れておかなければならないと肩肘張って背伸びをして、失敗した。ついに穴ぼこだらけの知識をもって最終学年を迎えた次第である。

 

バランスを取り戻す方法はひとつではないけれども、今回エンジンを開始させてくれたのは人との交わりだった。だからといって、次に失速したときも同じものを求めてうまくいくとは限らない。意識の上では人間関係が増えるにしたがって物事が回り始めたように覚えているが、実は本を読んでいたりニコニコ動画でくだらない動画をみて笑ったり北朝鮮の音楽を熱唱していたりするのも、他の人生を追体験したり内圧を下げたりするという点で、必要な補給であったり休養であったりしただろう。

 

このごろは『レ・ミゼラブル』と並行して、夏目漱石をずっと読んでいる。昔から、おそらく高校の教科書で『こころ』の下巻を読んでから夏目漱石をなんとなく気に入っていて、以来その感覚を手がかりにして断続的に手を出している。まだすべての作品を読破したわけではないが、いずれそのつもりでいる。

 

ところでこれはささやかな自慢混じりの話だが、あえてひとつ記しておきたい。教科書で読んだ『こころ』に衝撃を受けてから、その全編を読んだ。それで読書感想文を書いたら担当の先生にえらい文章力やとほめてくれた。これはいまでもときどき思い出し、そのたびにほんの少しじわりとあたたかい気持ちになっているところをみると、ぼくのくたびれた心を支える柱の小さな1本として立派に機能してくれている。ぱっと読んで受けた印象で言ってくれたことだっただろうが、数年の歳月を経てなおときどきぼくを慰めてくれる思い出をくれたということに、感謝の念を抱かずにいられない。ただの自慢だったらもっとうぇいうぇいと冗談めかして書くところだが、それよりもぼくは担当の先生がくれた言葉のありがたみを表したくて、真心をもって記した。

 

ここまでつらつらと思いつくままに書いていたが、ひとつここでそれらの点をささっと結んでみたい。ぼくの人生をうまく回してくれるものは何かという問いに対する暫定的な答えとして先ほど呈したのは「人との交流」であった。しかるにたったいま、すさみがちな心をあたためてくれるのは、おそらくちゃんと自分のことを評価して、それをちゃんと伝えてくれることらしい、ということが見え始めた。ちゃんと評価してくれる言葉は、じんわりと確実に心にしみて、機会があればいつも思い出すものだ。そして最近の様子を振り返ると、ぼくのことをいろんな点で、また些細なことでも、正確に評価してくれるという機会が増えたのだろう。人との交流が増えたら自然そうなる。

 

去年はしばしばニケと鳥貴族でのんでいた。あとはたまにゼロや、ほかの学部の友人とのんだりもしていた。そこでも日頃の憂さを晴らし、互いの傷をなめなめしあいながら、互いを能う限り正当に評価しあっていた。しかし、それもせいぜい週1回あるかないかという程度だった。ぼくも彼らもそれなりに忙しく、またそれなりに不安を抱えていた。

 

ぼくの方ではそれに加えて自棄を起こして閉じこもっていた。外界との交渉を極力もたずに、規則のかけらもない生活を送って、インターネットに依存してただぼんやりと苦しい毎日をやり過ごしていた。ところで、この依存というのもややこしくて、第一義には一般的な意味における、すなわちほかにやるべきことをそっちのけで度を超してやりすぎてしまうということだが、加えて第二義として、インターネットをやっていると避けられない不愉快な瞬間――悪意を源泉とする言動、鬱憤晴らしの暴力的な書き込み、はた迷惑で愚昧な独善、誤りとして切り捨てることはできないが個人的に傷をえぐられるような主張――をいやというほど経験してもなおディスプレイにかじりつこうとするということもある。第一義の方はアルコールに依存するようなもので、第二義の方は、いわばアル中夫から離れられぬ妻の心理、すなわち共依存のようなものである。世間一般において第一義の依存と第二義の依存を経験する主体は別と考えられているが、ぼくはそれをひとりで同時に体現したわけだから*1、この点についてはまあ武勇伝と思ってぼくに一目おいていただくだけの価値を有すると自任するところである。

 

無闇に複雑でおもしろくない冗談はさておき、正当に評価するというのがどうやら大切であるということが見えてくる。必ずしも正確でなくてもよい。能う限りでよい。能う限りを追求するというのは誠実であることに努めるということだ。

 

そしてまた出た、出ましたよ「誠実」という単語。やっぱり、ぼくはそのあたりへ帰着するしかないのだろう。あるいはそのあたりを出立点として、誠実であるとは何か、正しい決断とは何か、善く生きるとは何か、そういったことを問うていくしかないのだろう。そんな命題を背負っていくのが、ぼくの縛めというか、使命というか、アイデンティティというか、何というか。

 

その誠実やらなんやらを総じて徳とでも仮称すべき事柄が重大事として持ち上がってくるのは、やっぱりどうしても昔に踏み外した道が、数学をしていても、本を読んでいても、ゼミをやっていても、その間隙をすり抜けて呼びもしないのにあらわれるからなのだろう。戦争反対の声が上がるのは戦争を意識しなければならないだけの理由、戦争の機運がいやしくもあるからにほかならない。満ち足りて幸福に暮らしているところへ人生の意義を捻出する必要はなく、清廉潔白を自負するほどに吹っ切れているところへ道徳の話を蒸し返すいわれはない。

 

*1:ただし、高校時代のあれは共依存ではない! ということで通すつもりができあがっているので、そのあたりよろしく「共依存」を脱いでゆく - The Loving Dead