信頼できる人たちに恵まれて、はじめて自分自身でいられる

信頼を置ける人たちがいてくれるということのありがたさを痛感する。はるか昔の漠然とした不安感・孤独感・雑踏の中で自分の居場所が見いだせないという苦しい状態から、少しずつではあるものの脱却しつつあり、それに伴って視界がクリアになっていくのを感じる。

 

人というものは丈夫で立派であるようだ。そうだ、ほとんどの人は、少しワーディングを間違えただけで発狂したり、泣き出したり、人生に絶望したりしないどころか、個人的な理由で少し距離を置かなければならないという状況があったとしても、「そうか、がんばって」と単純に受け容れてくれたりとか「さみしいけど、がまんする」と辛抱してくれたりすることすら(まるでそれが当たり前だと言わんばかりに)ある。ああ、たとい1日でも自分がその人の世界を留守にしなければならないことがあったときに、もっぱらそのせいでこの人は壊れてしまうかもしれないという気遣いをせずにすむという自由。そしてさらに重要なことには、世間話ほど飾らず気取らず、しかし内面の吐露ほど肩肘張らないような、たわいのない素直な会話、出任せの冗談を、「この表現は万が一にも侮辱的(offensive)ではないか」とか「ひょっとしてこの人にとっては傷ついてしまうような内容ではないか」というふうに四六時中気にする必要がないという安心。その中でなされる会話にこそ、ぼくははじめて「この目の前の人にとって本当に大事なこと」と「ぼくにとって本当に大事なこと」が、抑圧されない本当の「その人らしさ」がでてくるようだ。ぼくが父としてきた対話は、総じてこの自由と安心からなる信頼感に基づいて行われてきた。

 

「この人は、こんな程度じゃびくともしない」と信じられる人たちに恵まれて、はじめてぼくは、ぼく自身であることができるらしい。

 

いまぼくのまわりにいる多くのひとは、自分の足でしっかりと立ってくれている。ちょっとくらい押したり引いたりしても、おおよそびくともしない。現状においてそこまでの域に達しているか確信を持てない人もいるけれど(これはひとえにぼくの「信頼する能力」が育ちきっていないゆえである)、彼らだって、少なくとも立とうと奮闘してくれているじゃあないか。それがぼくにとってどれだけありがたいことか、言葉を尽くしたとしても、十分に言い表すことができないだろう。

大会に出て、予選落ちした。負けたのは試合後の感触で予想していたこともあってすんなり受け容れられたが、結果を見てみると僅差で負けていることが判明した。悔しいというよりも、パートナー(優秀)に対して申し訳なく思う。その僅差というのが、4試合のうちはじめの2試合でぼくが平均的な、つまり基礎基本を押さえたスピーチをしていれば十分に手の届く範囲にあったからだ。ほとんどファーストばかりで、セカンドでしゃべったことがあまりなかったから、何を言えばいいか判然としないうちに準備時間が終わってしまったのが原因だろう。それでも、たとえ同じ浅い内容を言うにしても、整理して、番号をつけて話すだけでも結果はちがっていたであろうと思うと、ひたすらもったいない。普段の練習でもよく指摘されるこの怠慢を、今回に懲りて、もういい加減に根治していかねばならない。


その一方で、パートナー(優秀)がいてくれたことはぼくにとってありがたいことだったかも知れない。誰かに対して申し訳ないという痛み、誰かに対して仕事を全うできなかったという未練ほど(ネガティブではあるけれども)強い原動力はない。自分ひとりなら「ああ、残念」ですむかも知れないがが、仲間に対してもそう言いきれるほど肝は据わっていない。


ただ、最後の試合では結構高い点数をもらえたのが個人的な救いだ。これははじめの2試合でもらった「セカンドは比較は気にせずにキャラ分析がんばればいいよ」というアドバイスが功を奏した。こうして手応えと手がかりがつかめただけでも次の大会に向けて前向きにがんばろうかという気になれる。がんばるなら「やればなんとかなりそう」がいちばんよい。

 

 

自然とわき出た言葉の、その言葉遣いをじっくりかえりみてやりたい

この間はじめたディベートで、「モーション(お題)のワーディングを分析する」ことの効用を実感しはじめている。言葉遣いをしっかり分析することで、(相手を上回るための)スタンスを決めることができる、スタンスを実現するようなモデルを設定する、モデルの有用性(優越性)を示すために証明する項目が浮かび上がってくる……といった具合に内容が深まってくる。もちろん相手側も同じようにしてこちらを上回ろうとする。すると争点が発生して、そこにスピーカーが触れることで全体の議論も深まっていく。


この間から愛とかなんとか言いながら、何か本質的なことをとらえようとしているようで、その実核心部分からは一定以上の距離を保ちながら、その周囲をとびまわっているだけだという感覚がある。このことは「愛」のはなしに限らず、ぼく自身のパーソナリティ、ぼく自身の内面にかかわるあらゆることについて考えを巡らすときも、核心に迫ろうとしている格好をとってはいるものの、その入射角度はまったく甘い。文字通り、核のまわりを「巡っている」だけで、どこかにたどり着く気配がない*1。そのうち堂々巡りにも疲れて、「わかりません」で終わる。


ディベート的な"for or against"の二項対立が、内面のデリケートな部分を扱うのに常に適した道具かどうかはわからない。ところが少なくともその基礎をなしている「ワーディング分析」は確実に有用だろうと感じる。なぜなら、ディベートのモーションの分析においても、内面の言語表現の分析においても、「言葉の含んでいる意味」を追求するということにおいては同じことだから。自分の中からわき上がってくる言葉を書き出して終わり、ではなく、その中に含まれているひとつひとつの表現に焦点を当て、その意味を自問する。その答えを言語によって表現する。答えに含まれる表現の意味を、再び自問する……。その方法で、ある程度は深まっていきそうだ。

 

ただし、もう少し深刻な問題があって、それが「言葉(形)にすることすら避けている感覚が、形を持たぬの地縛霊ごとく脳裏をさまよっている」ということである。注意を用いず安易に表現するにはあまりにぶしつけであるために口にするのも(文字にするのも)はばかられるが、かといって、そうならないよう注意深く丁寧に表現を構成するだけの気力も時間もない。そもそもその感覚そのものが本当に「しっかりと分析すれば十分理にかなっていて、無用な攻撃性を含まず、なおかつ自分にとって(欲を言えばほかの誰かにとっても)意義のある言葉」に昇華できるかどうかさえわからない。

 

問題はいろいろとあるけれども、そんな中でもやっぱり正しい方へ向かって最初の一歩を踏み出さないといけない。とりあえずは、表現できたものたちのワーディングの分析だろうか。それが「最初の一歩」になってくれることを期待している。

 

*1:まとまりのなさ・不連続性といい、核のまわりをうろついていることといい、きみの思考はまるで電子の振る舞いそのものやないか!

「女性を愛する」ってなんなんだ

人を愛するということがどういうことなのか、少しは自分なりに理解しているつもりだ。いや、ぼくのような若輩者に「愛」という深遠なテーマをすっかり理解することはできるわけがないはずで、またすっかり理解したのでなければ、それはまったく理解していないのと同じなのかも知れない。それでも、アホなりの愛を実践したい。いまは少し無茶をしたときの古傷がうずいていて、全力でコミットできる状態ではないが、それでもやはりいつかはしっかり悔いのないような愛を、うまく体現したい。適宜修正と訓練とを重ねながら、すこしでもよい愛し方ができるようになりたい。

 

ところが「女性を愛する」とはどういうことなのか皆目わからない。そもそも「女性」とはなんなのだ。「女性器を備えもつ者」だろうか、「『自分は女性である』という自覚を持ち、"女性"として生きていくことを選ぶ者」だろうか、あるいは「世間の"男性"に『この人は"女"だ』と決められた者」だろうか。

 

そういった定義が適切であるような文脈はもちろんある。医学やら生物学の話をしているのなら「女性器」による定義がおそらく妥当であろうし、心理学やらジェンダー論、フェミニズムセクシュアルマイノリティ関連の話では「アイデンティティ」「自己規定」あたりを出発点にしておくのが議論の出立点として無難そうだ。安居酒屋なんかでありそうな「好みの女談義」において、「自分が女として見うる許容範囲」が、(ぼくは知らないけれども)採用されているのではないだろうか。

 

しかし、「ぼくにとっての(ぼくの愛の対象としての)女性とは何か」を定めようとすれば、これらの定義はほとんど無意味(ill-defined)になってしまう*1。先日も述べたとおり、ぼくにとっての愛は、まだ慈愛しかない。そしてそれを「女性」というこれまた輪郭のはっきりしない集合*2に制限するということが、ぼくにはどうもしっくりこない。

 

もっと人生経験を積めば、もっと別の、もっと深い「女性に対する愛」を見つけられるのだろうか……。わからない。

 

あなたはどういう意味で「女性を愛する」と言っているのか。

*1:「それは君が自分の好みをわかっていないだけだよ」という指摘があるかも知れない。しかし、そもそもぼくは好みの属性/型(i.e. タイプ)の話をしているのではない。あくまで愛の話をしているのだ

*2:これは公理的集合論はおろか、素朴集合論においてさえ、集合とは認められない!

1 on 1 でする恋愛などというものは、到底ぼくの手に負えないように思われる。そういう感覚に常づね物陰から見張られ、つきまとわれてきた。

 

いざその感覚に向き合って分析しようと奮起すると、たちどころにその感覚そのものが薄らぐ。それに取って代わって、今度は自分にもやればできそうという楽観が(これもやはり感覚に過ぎないのだが)ぼくの中で充満し、「実は『そんなに恋愛というものをやってのけられない』というのは、明確な理由なく自身を過小評価していたからにすぎない」と早急に結論を出して、このことについて考えるのをやめてしまう。そうしてまたしばらくすると、隙を見いだしたかのように、また「自分には恋愛というものは不可能そうだ」というような気分が、漠然とやってくる。そういう意味で「できない」という感覚は常に物陰からこちらをうかがい、こちらが振り返るたびに身を隠し、しかしおそらく確実にぼくの周囲のどこか、こちらからは容易に特定させてくれないような場所から、気配の圧力を送り続けている。

 

ぼく自身が「恋愛」というものを嫌っているのかも知れない。愛はわかるつもりだが、恋とは何か。ぼくには愛といえば慈しむ愛しかない。それも特定のひとりをひいきして、そのために己の信ずるところを曲げるような、そういう愛し方はもうできない。そんなものは必要ないと世の人はいうかも知れないが、あなたがよしとするところの恋愛様式とは、あなたが個人として望むところの恋愛のかたちとは、では、いったいどういうものなのか?

 

いわば夜の乱文である。頭のぼけた文章だ。明日のぼくが見れば、いつものとおり、赤面するようなことを書いているにちがいない。さようなら。

長らく懸案であった教習所の申し込みを今日ようやくすませた。うまくやれば一応裸眼でも免許が取れる程度の視力だったようだ。なるべく裸眼で資格を取っておいて、実際上は矯正して運転したい。種別はマニュアル。

 

1週間ほど前から『カラマーゾフの兄弟』を読み始めている。上中下とあって、それぞれが500ページ超という一息に読み終えることのできない文章量で、せいて読むということがない。さらに重要なことには、物語の質として重層的で非直線的である(ぼくにはこの小説の扱わんとしていることを一望に収めることができない)。そのために、自転車に乗ったり歩いたりして本から目を離しているときにも物語に刺激を受けて、あれこれ考えを巡らしたりしている。きっと、そういう営みの蓄積が人間というものに対する洞察力を養い、深い人格を培ってくれるに違いない。

 

もっとも、そのための方法が「重厚な長編小説を読むこと」しかないわけではなく、例えば「人の身の上話や目下の悩みなんかをきかせてもらって、それをうけて自分でもあれこれ考えてみる」といったことの積み重ねでも、(さすがに完全なる代用にはならないだろうけれども)、ある程度まで類似した効果を期待できると思う。むしろ、こちらの方がぼくにとって慣れ親しんだ方法だったりもする。人の話をきいて、それをぼくなりに考察・消化し、状況が許せばそれを当人にフィードバックさせてもらって、妥当かどうかを検証してもらう。そういう風にして人が提供してくれた「ひとつのストーリー」から何がしかの理解・解釈を試みるのが好きなのだ。

 

もしもぼくのことを、その方面で「おもしろい」と言ってくれる人がいるとしたら、それはひとえに「これまでぼくにたくさんのお話をきかせてくれた多くの人たち」がいてくれたおかげである。そう思うと、ますます彼・彼女らに感謝することしかできない。

 

こんな時間に書いているので、日本語が崩壊しているかも知れない。

 

この後卒業ゼミ。もうねる。

新学期到来。卒業ゼミのために予習をするも、すぐにすべてを忘れ去っていることに気がつき、復習にうつる。読んでみると、無理にわかったことにして進めていた箇所も、ああそんなことか、と頭に入ってくる。必死になってすべてを書こうとせず、ある程度まで頭の中でイメージだけして、「こんなもんやろ」で済ませてみる。前期に勉強していたときには、不自然なまでに、いわば普段なら気にしないようなレベルで正確さ・厳密さばかりを気にして、内容をおざなりにしてしまっていたことがわかる。

 

春にゼミが始まって以来一貫して「イメージが大事」と先生に云われている。「細かい式はどうでもいいので、まずはイメージを」と。それはそうなのだが、それができれば苦労しない、とうそぶきながらも、要するに追い詰められていたぼくは、ゼミのメンバーにときどき弱音を吐いていた。先生がいるところでは、下手なことはいえない、と考えていたのだろうか。いや、ゼミのメンバーや、友達にさえ、うかつに不正確なことを、たとえ試みにでも口にしてはいけないと感じていたのだろうか。変なこと、明確に誤りであることを口走った時点で、周囲が敏感にそれを検出し、「それ、間違ったことをいったぞ」と袋だたきにすると恐れでもしていたのだろうか。

 

<いや、そんなことはない>と前期のぼくは反論する。<世間はそんな狭量ではない。そのことはよくわかっている。いくら視野狭窄に陥っていたとしても、そこまでぼくの目は節穴じゃあない>と。しかし、なぜそう言える? 周りがお前に「君が間違ったことを言ったとしても、われわれは君を見限ったりはしないよ」と明示的に請け合ってくれでもしたのか? そんなわけはあるまい。なぜなら「あなたたちは、ぼくが不正確な主張を、冗談であれ、あるいは試験的にであれ、述べてみたとしても、ぼくを見捨てたりはしませんか?」などという、それこそ妙なことを訊くことなどできやしなかったからだ。その証拠に「ぼくの目は節穴じゃあない」と言っているように、前期のぼくは、ひとり遠巻きの観察(と、美化された過去の友だちづきあいを回想すること)によって「世間の寛容さ」を憶測したに過ぎない。それに、前期のぼくは人に、例えば発表順や次回の日程を確認するためのとするたびに幾度も逡巡し、メッセージを送るまでに何度も推敲し、結局「もうええわ」と半ば投げやりに送信ボタンを押していたのを知っている。

 

前期のぼくよ、確かに君の周りの人間は大抵寛容だ。すなわち、君の「洞察」は、結果的にはまあ正しかったということになる。ただし、その「洞察」は洞察ではない。「そうでなくては困る」という、窮地に立たされた者の一縷の望みに過ぎなかったわけだ。

 

まあ、しかし、安心してくれたまえ。後期はもう少しうまくやって見せるよ。そうして、ぼくは前期のぼくの苦労に報いて差しあげなければ。

 

やっぱり苦しみの渦中にあるときに、しんどいと嘆くいまの自分を甘やかすと決めつけてしまわないで、報われるかどうか確信を持てない未来のために、たとえ盲目的にでも、たとえ休み休みでも、たとえやけっぱちを起こしながらでも、もがいて、もがいて、もがき進む人の背中にこそやさしく手を添えたい。当然、「その苦しみは必ずあなたの望む形で報われるよ」などとは云えない。ただ、ぼくの情が、そのもがく生き方を支持したい、と言っているまでだ。ふつふつとわき出るegoの叫びに過ぎない。