このところ、信頼を置くとか自分をゆだねるとか、そのような標語がしばしば脳の中心部を占めていた。自分はまだうちにひきこもっている、人を信頼できていない、自分のからを破れていない、どうにかしないといけない、と。ところが、この信頼とか委ねるという煮詰まった重苦しい言葉をわざわざ好んで用いていることが事態を無用にややこしくしている要因になっているような気がしている。おそらく、この問題はもっと平易な言い回しで「上下関係において壁を作ってしまう」と表現すべきだ。実際に先生や先輩と接する現場で起こっていることを振り返ってみても、信頼という言葉は役不足の感がある。信頼というと個人的における理由やおけない理由があったりするものだが、現場でぼくが押し黙ってしまうのは、そのような複雑な事情を比較検討した結果としての一大決心などではなく、単にもう一歩が踏み切れず引っ込んでしまっているという現象があるに過ぎない。引っ込んでしまうのに理由はなくて、ただもう傾向から、癖から、不慣れからそうなってしまっているだけである。

 

上下関係はなるほど面倒かもわからないが、周りを見渡すと大抵みんな気楽にやっているのだから、自分もそうしてはいけないきまりはなかろう。となればその部分で神経質になりすぎず、リラックスして関われるように意識していけばそれでよいのではないかと、今日のところはなぜかしらたいそう楽観的な心持ちでいるわけであります。

信頼して、素直になれば大丈夫、大丈夫であるはずなのに

久しぶりに発表で炎上した。それもぼくがぼく自身としていちばん許せない形の炎上だった。準備段階で(試みたが)理解しきれなかった箇所があるのをきちんと自覚し、そこを発表段階で指摘されたら「わかりませんでした」とすっかり白状する――これはまだよい。自覚があり、またそれを認める覚悟が決まっていれば、第一に、白板の前で思考を空回りさせる乾いた時間、誰にも幸せをもたらさない時間をとらずに済む。さらに先生やメンバーの助けを借りることによって、自分自身を成長させる機会にもなるからだ。しかし、理解の試みが中途半端であるために理解しきれておらず、かつ、その理解不足をその場のノリ(その場しのぎのごまかし)によって切り抜けてしまおうという企てが失敗した結果としての炎上について、ぼくはこれを潔しとしない。そして、ぼくは今日それを犯してしまったのだ。案の定、白板の前で思考停止し、自分を含めたみんなの時間を浪費してしまった。


「まあ、だいたいこんな感じでなんとかなるやろ」と高をくくって発表に臨んでしまったこともそうだが、それ以上に「ちゃんと考えられていませんでした」と理解の試みが中途半端であることを即座に認められなかったことを、忸怩とせず省みることができない。というのも、予習段階で何らかの油断、慢心があることを、少なくとも何となしに意識はしていたにも関わらず、指摘を受けた瞬間、往生際をわきまえず悪あがきをしてしまったということにほかならないからだ。


「予習段階の慢心を自覚しているのならば、指摘を受けた瞬間に覚悟を決して素直に助けを求めるべきである、というのは、たしかにその通りかも知れない。けれども、なんといっても悪あがきに走ってしまったのはとっさのことだったのだから、重く受け止める必要はないのではないか。もっと肩の力を抜いて、『次からは気をつけよう』でかまわないのではないか」という声も聞こえないでもない。しかし、ぼくはやはりこの「とっさ」の選択に、ぼく自身の、先生に対する信頼の不足が潜んでいるのを感じている。念のため断っておくと、この信頼の不足は当該先生に対してのみ抱いているものではない。先生は、本来、問題なく信頼に足る人物であると認識している。

 

人びとに対する信頼の不足――これが年来の悩みの種なのだ。人に甘えきれない、人に頼れない性質とも換言できるが、この性質がぼくを周囲の人たちから無理矢理引き離してしまうのだ。本来は大抵信頼に足る人たちなのに。少しくらいぼくが素を出したって、そのことだけで壊れてしまったり、あるいはぼくを異端者という烙印を押すような人なんかではないはずなのに。

 

ぼくはもっともっと人を信頼したい。でないとぼくは人を再び心から愛せるようにはなれない。

ぼくはもともと普段から自意識におぼれているというわけではないのだが、いかんせん、何かを自由に書くとなると、どうしても自分のことを書かずにはいられないように思う。いや、自分から離れたことを書くことができない。学校の課題として何について書けという指示が下れば、がんばってそれに沿うた形の文章を作ることはできる。けれども、何も言われていないのに、人の目に触れるところで自分以外のことについて熱心に書くことができるのか、はなはだあやしい。

 

国破れて山河ありだとか、智に働けば角が立つだとか、そんなものが書けるのであれば、書きたい。書いて堂々としていられるのならば、そうしていたい。「これはごく個人的なことだから」という言い訳が立つ範囲をはみ出て何かを書けないでいる自分がもどかしい。省みればぼくがものを書こうと思えるのも大抵夜中の前頭葉のはたらきが弱まりそうな時間帯ばかりだ。それが証拠に、酒が入っていると、なお筆は進む。

 

ああ、また全消ししようとしている。ここまで書いて、こんなしょうもない、やめたらこの文章、という気持ちがわき上がってきた。そうやって無に帰した時間が先月だけでもどれほどあったことか。

 

YouTubeの「わが民族同士」も消えてしまってからは、その空白を埋めるようにして淫夢やらクッキー☆シリーズやらゲーム実況やら、そのあたりの動画を視聴する癖がついてしまった。それはそれで一興ではある。ニコニコ特有の珍技術妙編集は、おもしろフラッシュ倉庫文化に通底する雰囲気を感じ、何となくほっとする。ほっとするけれども、やっぱり主体思想の代わりにはならないのだ……。

 

すっかりまとまらない文章になってしまった。また明日も教習がある。本当に運転できるようになるのか不安だ。

ブログを分けるかも知れない

このごろはこのブログが言葉遊びの冗談半分の日記、淡々とその日あったことを書くだけの記録のようになってしまっている。やっぱりぼくはこのブログのタイトルにあるような愛・死をはじめとした、いろいろの内的な経験を整理して、意味を求めるようなものにしたい。そのために日記用のブログを新しく作って、役割分担させることも検討している。一応「内省」などといったタグ付けを行ってはいるけれども、それでも同一ブログ上でごちゃごちゃとエントリをまぜてしまうのは便利ではない。不純物の割合の方が多いとなおさらである。

 

ただ、移行作業をどうやるかわかっていない(そもそも無料版のはてなブログで可能なのかどうかがわかっていない)ので、もしかすると書いてしまった分についてはそのままにしておいて、次のエントリから、という形をとるかも知れない。

 

以上。

MT技能教習と関西おばちゃん教官の豪放な励まし

明日、というよりも今日この後2回目の技能教習がある。あれは見た目以上にデリケートで難しい。クラッチの操作が半クラやらなんやらでトリッキーであることは承知していたが、いやいや、それ以前にアクセルの踏み方からして繊細さを要求される。ゴーカート気分でパシーンとアクセルを踏むと攻撃の勢いでエンジンが回る。ヴーン!! 発進時は1速に入れて1500rpmから2000rpmを維持して半クラッチを作るように、と指示されるが、ここからすでにちょっとしたゲームである。

 

それでも1回目にしては悪くないできだったのか、ニコニコと愛想のいい関西おばちゃん教官は「うまいやん! これなら女の子乗せても安心やな」「やっぱマリオカートも得意やろ」とほめてくれた。もちろん客観的に見れば、全体としてぎこちない操作だったことは、ぼく自身が自覚している。停止・発進にいちいち不穏な加速度Gを感じたし、一度は停止時にクラッチを踏み忘れてエンストを起こした。それでも細かいことを抜きにして、とりあえず目標自体の達成をもって、威勢よく「うまい」とほめて励ましてもらえたことがまずうれしかったし、加えて、おばちゃん先生がわざわざ照準を平成に合わせて話をしてくれていることが余分にうれしかった。ぼくはもう照れてしまって「ありがとうございます」とうつむいて笑顔をかみ殺して返事するのが精一杯だった。

 

できることなら、伝えたかった。教えてあげたかった。

 

マリオカートはオートマですけど」

連れの卒論の手伝いなどをしているうちに、自分が卒業するために必要な授業に出ることを忘れていた。いつの間にかこの曜日は1日全休であるという勘違いが発生しやすい思考回路になっているような気がする。何回の出席が必要と定められているわけではなく、最終的には担当の先生がいわゆる「総合的な判断」をすることで卒業の可否が決まるという仕組みである。いまのところゼミに参加してさえいれば特段追及されるということもなさそうだが、だからこそ、油断していると後で不意打ちを食いそうでおそろしい。

 

この人生で何度目かわからないが、また生活習慣がおかしくなってきている。こうなると1日のうちに気分よくいられる総時間が減ってしまうのはわかりきっているのに。しかもいましがたシャウエッセン1袋と札幌みそラーメンのカップ麺をたべてしまった。もうめちゃくちゃだよ。

小遣いを受け取る心苦しさを書きかけて

昨日はお小遣いを受け取るときの心苦しさを中途で書きさした。いまこの書きさしたという事実を記すのでさえ、相当なためらいをもってしている。借り物でもなければ、何かの対価でもない、使いみちも指定されていない、ただひたすら受け取り続けるだけの金。そのうちの何割が、どれそれに使ったと胸を張っていえるものだろうか。そもそも、何に用いられたのかを把握し記憶している分が、いったいどれだけのものか……いろいろと踏み込んで書こうとしたが、だんだんときりがなくなってきて、またそれ以上に苦しくなってきて、ついにやめてそのまま保存もせずウインドウを閉じてしまった。

 

自分で稼いだといえる金はいい。それがたとえ酒に変わろうが、パチンコに変わろうが、セックスに変わろうが*1、一向に気にしないし、気にするつもりもない。でも、それが親の稼いだ金、祖母に支払われた金だと意識してはそうもいかない。

 

それでも受け取るときは、そういう心苦しさを自ら添えて(とはいっても素直に感謝はしながら)受け取っている。受け取った後もしばらくその事実を反芻する。ぼくはまたこの小遣いというものを受け取り、そのうち多くはその場限りのちょっとした贅沢(ちょっといい日本酒、そこそこ上等なコーヒー……)といったものに消費されてしまうのではないか、いや、そんなことには使うまい、もっと自分への投資になるような物事に使うのだ……などと決めてみたりする。ところがやはり1日たつとそういったことは忘れて、自分で稼いだ金と区別がつかなくなっている。そして次に再び受け取るに至り、そこでようやく「前にもらった分は何に使ったんやっけ」という問いがはっきり意識される……。

 

ああ、やはり書いていると苦しくなってきてしまうし、たちの悪いことには、いくらでも書き続けられてしまう。もうやめておこう。もっと鋭くもっと簡潔に、もしくはもっと緻密にもっとねちっこく、自分いじめをすることはできるけれども、今日のこんな時間からそんなことをしだすと確実に明日にひびいてくる。今日はもうすでに終わっており、明日は明日でやるべきことがあって、それに心を向けてさえいればよく、今日にも明日にも関係のない話のために割くべき心の余裕などないはずなのに。以上、終わり、閉廷。

*1:酒はともかくパチンコや風俗にはまず行かないけれども