心の騒いだ読書月間

2月はいつになく読書に凝った月だった。これまたいつになく作りはじめた読書カードによると、今月は少なくとも8冊を読んだということになる。いっぺんにこれだけ本を読んだことは、これまでの人生を振り返ってもない。

 

一方で、「日蝕」の長文エントリに象徴されるように、この読書月間を通してぼくの感情は起伏に満ち、思索は混迷をきわめた。「なにやら喚いていた」という印象をもったなら、それは成熟した人間の視点としては、至極もっともだと思う。そして実際はブログに記さなかったが、記していれば火のついたフリースのごとく炎上していたであろう考えや衝動が、普段以上に足繁く胸中を去来していた。

 

知識との格闘は、とかくそういうものなのかも知れない。「わかるようになりたいのにすぐにはわからないこと」に向き合ったときに沸き起こる怒りやかなしみや苦しみ、ままならぬ思い……。その中できちんと勉強している"よい学生"は、そういった感情の扱い方を心得ていたり、使命感あるいは義務感のもとに無理やりねじ伏せてしまうことによってやり過ごしているのであろう。そして、"よくない学生" (ぼくは8割くらいこちら側である*1 )は、そんな精神的な混乱を御することかなわず、机に、本にかじりつくかわりに、娯楽の潮流に身を委ねてしまう。

 

ぼくは、"よい学生"がツイッターやブログなどで、学校や先生や周りの学生をはじめ、世の中のあらゆるものに対して一見"年甲斐のない"呪詛を垂れ流しているのをしばしば目にする。そういったものに対して、大抵は努めて一笑のうちに流してしまおうとしていたが、ときにはどす黒い反感と共感の混合物が脳裏に湧出することもあった。それに気づいた瞬間慄然とし、「あかんあかん」と苦笑とともに頭を振ったりした。

 

彼らは「ツイッター/ブログという文脈における面白さや人との繋がりを追求してるだけ」とうそぶいて見せるかも知れないが、ぼくにはその裡に多かれ少なかれ思春期のような感性を感じ取って、「かくあるには自分はすでに年を取りすぎているのだ」と決めつけていた節がある。

 

しかし、「わからないをわかるに変える」営みを真に達成しようとするならば、このような裡なる苦悩や混乱は避けて通り得ないものなのかも知れない。してみると、「わかりたい」と「わからぬ」に板挟みにされるその圧力が強ければ強いほど、陰口や嘲笑のひとつやふたつ、飛び出したとしても不思議はない。裏を返せば、彼らはそれだけ学業に真剣に取り組んでいるとも言える。それだけ若々しく、エネルギーとポテンシャルに満ちていて、全身全霊が未来を志向しているのだと。

 

このままどう筆をすすめても自分が暴走していたことについての弁解にしかならないことを悟ったので、いっそ開き直って筆をおく。

*1:100%と言えないあたりに往生際の悪さが見て取れる

観念的女性恐怖症を克服する

(内向性を存分に発揮した、人によってはしんどいかもしれない内容です)

 

長年心の中にあったわだかまりが氷解したように感じられたので、それについて記録しておきたい。とはいえ、そもそも「氷解」の感覚に対してぼくは全幅の信頼を置いてはいない。「わかった!」と思って風呂から飛び出すなり全裸で街中をかけずり回ってみたものの、実は勘違いだったり、同じことの再発見だったり、小さな進捗が大きく見えただけだったという恥を経験しすぎている*1。感情が大きく振れているときに人は醜態をさらすものであるということを肝に銘じて、普段以上に慎重に言葉をえらびながら、このよろこびをかみしめたい。

 

「女性」に抱いたしんどさと、その場しのぎの対処法


長い間、「女性」というものを観念的にとらえようとすると胸に不穏な波が押し寄せるがあると自覚していた。個別の具体的な女性に接しているときには(その人がよほど「危なそう」でない限り)そんなことはなく、むしろぼくのためには大抵よき交流相手であってくれた。あくまでぼくの中にある「女性」という観念に意識を奪われはじめると起こる現象で、最近はその頻度も減っていたが、少なくとも月に1度くらいは大なり小なりそういう残念な苦々しさを味わわなければならない瞬間があった。誤解を恐れずに言えば、「自分が『不当』に扱われているような錯覚」*2である。

 

そして、このざわつく感覚があらわれるたびに、「ひょっとしてぼくは『女性』というものに対してけしからん偏見を持っているのではないだろうか」という自責の念が立ち上ってきて、余計に胸が苦しくなった。問題の根の深さを思いやると、ぞっとした。ぼくには異性との持続的な恋愛関係が、もはや不可能となってしまったのではないかという思いが幾度も頭をよぎった。

 

この苦しさをやり過ごすために、強引であることを承知しながら、さっさと自分なりに結論づけて忘れようと努力してきた。それは、例えば、「高校のときに痛い目にあったから、そういう風になることもあるやろ」とトラウマ説を持ち出してみたり、「誰しも男性的・女性的な特性をいろいろな比率で持っていて、その女性的な部分が嫉妬しているせいではないか」と性のグラデーション説をアレンジしてみたりするといったやり方であった。これらは対症療法に過ぎなかったが、いまとなっては本質的にも当たらずとも遠からずといった対処法で、もう少し仔細に心中を閲するだけのガッツがあれば、もっと早くに解決を見ていたのかも知れない……。

 

分人主義の導入

 

分人主義は、自分というものを扱う際に、「個人(individual)」*3よりも小さな「分人(dividual)」という単位でとらえるとうまくいきますよ、という考え方である。すなわちひとりの人間は「唯一の本当の素顔をもった存在(=個人)」ではなく「接する人や物事それぞれに専用の人格(=分人)があり、その総体としての存在」であるという原理に基づいて、自分のあり方や振る舞い方や価値観などをとらえ直すのである。

 

「個人」という概念は、何か大きな存在との関係を、対置して大掴みに捉える際には、確かに有意義だった。――社会に対して、個人、つまり、国家と国民、会社と一社員、クラスと一生徒、……といった具合に。
ところが、私たちの日常の対人関係を緻密に見るならば、この「分けられない」、首尾一貫した「本当の自分」という概念は、あまりに大雑把で、硬直的で、実感から乖離している。

 

一人の人間の中には、複数の分人が存在している。両親との分人、恋人との分人、親友との分人、職場での分人、……あなたという人間は、これらの分人の集合体である。
個人を整数の1だとすると、分人は分数だ。人によって、対人関係の数はちがうので、分母は様々である。そして、ここが重要なのだが、相手との関係によって分子も変わってくる。
(……)
また、他者とは必ずしも生身の人間でなくてもかまわない。ネット上でのみ交流する相手でもかまわないし、自分の大好きな文学・音楽・絵画でもかまわない。あるいはペットの犬や猫でも、私たちは、コミュニケーションのための一つの分人を所有しうるのだ。


個人(individual)の不可分性(individuality)に根ざした「本当の姿」という考え方の反対の極にある思想が、「私という存在は、ポツンと孤独に存在しているわけではない。つねに他者との相互作用の中にある。というより、他者との相互作用の中にしかない」という、著者の断定的な主張にあらわれている。


この考え方を採用すると、ひとりで悩み葛藤する自分というのが、実は「様々な分人が入れ替わり立ち替わり生きながら考えごとをしている」(平野)ということになる。また、自分と他者との相性によっては、生き心地のよい分人(気に入っている人といたり、好きなことに取り組んでいるときの自分)や悪い分人(仲の悪い人といたり、好きでないことをやらされているときの自分)があったり、時にはあるひとつの分人が何らかの原因によって異常な膨らみ方をして他の分人を圧迫したり、不適当な考え方に分人化の機能が阻害されたり(ある特定の関係に病的に固執するなど)する。

 

「女性」問題の解決

 

さて、「女性」問題である。ひとまずの解決法から言うと、次のようになる: 自分と個別具体的な女性との間で生まれる自分の分人で、気に入ったものを大切にすること。これを基本方針として実践し、場数を踏んでいくこと。これまでの感覚から言って、重点はむしろ「気に入らなかった分人にきちんと見切りをつけてやる」「相性の合わないことを、変に勘ぐったり、自分のせいにして無理に合わせようとしない」方にあるだろう。

 

「女性」の観念に誘発されて肺のあたりに押し寄せる波とは、過去に不幸な事故にあった分人たち*4が、「対女性防衛団体(仮)」というおおざっぱで的確でない名目で寄り集まった「分人の団体」*5なのではないかと結論づけた。これだけなら分人という単語を用いずに、「女性にまつわる嫌な思い出が、はっきりしたものからおぼろげなものまでいっぺんに押し寄せてきた」と言っても、叙述としては誤りとはいえない。が、分人を用いることによって次のようなメッセージが意味をもつようにできる。

 

対女性防衛団体(仮)のみなさまへ

あなたがたは、かつてその手の危機に瀕した際には、なんとかがんばってくれました。そのおかげでいまのわたしがあります。いまとなってはよりよい理論と、それに基づいた堅固な防衛機構がありますから、もう解散して記憶の深いところでゆっくり休んでいてください。いままでありがとう。

わし(53)より

 

こういうものは、読まされる側からすると、薄ら寒いかも知れない。未来のぼくが、このエントリを読み返して、立腹と苦笑に顔をゆがめ、「恥の悦びを知りやがって」とスマホの画面をねめつけているいるかも知れない。それでもわざわざ書いたのは、「氷解」を得た瞬間にあふれ出たこのメッセージがまさにこれであり(実際に紙の日記にそう書き記した)、その感覚をここに書きのこしておかなければ気が済まなかったからである。だから、このエントリを撤回するときは、おそらくは冒頭に続いて留保したようにその「氷解」が間違いであったと判明したときか、もしくは自分のさして成熟しているとはいえない内面をかくも惜しげもなく開陳している事実に耐えられない分人が幅をきかせはじめたときだろうと思っている*6

 

*1:もっとも、恥は必ずしも悪者ではない。客観的・社会的には抑止力としてはたらくし、主観的にも恥の感覚は、うまくやると心地よいものでありうる

*2:現に女性から不当に扱われていると言わざるを得ない男性もいることだろう。また、その逆に男性から不当に扱われているとしか言えない女性も。その問題についてはここでは論ぜられないが、せめて彼ら彼女らが心安らかに過ごせる日が来ることを祈る

*3:"in-"否定の接頭辞と"dividere"「分割すること」で「不可分なもの」「(最小)単位」の意。古典ギリシャ語における"atomos"の訳語であるという

*4:必ずしも高校時代のみを指さない。「女子から男子であることを理由に会話から排斥されて傷ついた」など、ごくありきたりなものまで含む

*5:分人の足し算で分人和と称してもよいかも知れない

*6:その上で背景説明(言い訳)だけさせてもらうならば、これは以前に読んだ『うつからの脱出』が下敷きになっている。「不安」や「怒り」や「かなしみ」といった、一般的には「ネガティブ」とされている感情は、本来自分自身を守るための<感情のプログラム>であると説明されていて、紹介されているプチ認知療法はどれも「ネガティブ」な感情や認知を一方的に唾棄するのではなく、むしろ感謝・受容しながら、より楽な方向を目指すという一定の方針が見て取れる。このことが念頭にあって、上のようなメッセージがシャーペンから流れ出てきたのだろうか

ネットは海なり危険なり

報告書作成のため、久しぶりにPCに触った。やはりPCは(というよりIT機器全般は)明確な目的を持つ者には大いに有用な道具であってくれるが、そうでない者には、ひたすら消費的利用を強いる。特にインターネット ブラウザは決して思考するための道具ではない。玉石混淆の情報を圧倒的な勢いで押しつけてくるものだ。ネットの海とは言い得て妙で、海での遊び方を最低限知っていれば表層を広くサーフィンすることもできるし、宝探しに深層へ潜って行くこともできる。浜辺でわいわい楽しくよろしくするのもよし。人気の少ない磯のあたりで海の様子や人間模様を観察するのもまた一興である。

 

そして重要なことには、もちろん、初心を忘れてなめてかかると、たちまち沖へとさらわれ、帰還するのが困難になりがちだということ*1。何をしに海へ行くのか、目的意識を明確にもち、そのための計画を整えてから電源をつけ、計画を遂行するか、能率の低下を感じ取ったら電源を切る。ぼくは特に"泳ぎ"が下手なのだということをもっと自覚しなくては!!

 

なにやら訓戒じみたやかましいエントリになってしまった。こんないつも以上に「誰得」な文章は本意ではないが、ここまで書いてしまった以上塩漬けにするのも癪なので、公開してしまう。

 

こういうところでブレーキのきかへんあほでんねん。

 

*1:社会的な手枷足枷のすくない大学生は特に!

学校へ寄るついでに本を買い込んだ

学校のパソコンを使うと年間で200枚まで印刷できるのだが、ぼくは友人にその印刷枚数を譲渡するために片道1時間かけて登校した。

 

着いたのは昼頃で、外は晴れとも曇りともつかず、時折細雪がちらついていた。季節のことはよくわからないが、この間際立って暖かい日(後に春一番と称することを知った)があったことは覚えていたので、今日もそうに違いないと思い込んでいただけに、やや残念な心持ちになった。

 

友人は印刷を終えたあとすぐゼミがあると言って、立ち去ってしまった。友人のためなら寒空の下馳せ参ずるに吝かではないとはいえ、たった10分で、しかも手ぶらで帰るのはあまりにもったいなく感ぜられたので、附設の書店で新たに小説や新書を買い込むことにした。

 

今回は思い切って三島由紀夫太宰治といった、「危なっかしい」と修飾したくなる小説家の作品に手を出した。これらについても読んだら読んだとだけここに報告する心算でいるが、もしかすると、妙に感化せられて素人の熱弁を振るい、後に悔やむこととなるかもしれない*1。他に、以前幾度か触れた「分人主義」の本や、認知症との付き合い方の本など、興味の赴くままに手を伸ばした。

 

暗算はまったく得意ではないが、3000円くらいであろうとあたりをつけて、チェックアウトしに行った。

 

パソコンをやめてから3週間ほどになるだろうか。実のところ、仕事以外の用途、すなわちブログの細かい記事編集のために立ち上げたことが1度あったものの、それでも毎日あの画面に被曝していた頃を思うと、憑き物が落ちたようにパソコンと冷静に向き合えるようになった。少なくとも、12時間もの間、目的を欠いたまま脳を電光に浸し続けていた日々に戻りたいとは思えない。十分な睡眠時間を取り戻し、ずっとクリアにものを考えられるようになった。

 

 

合計4550円だった。

支払いを済ませて外に出ると、まだ雪がちらついていた。

*1:すでに文体が病気に罹ってるやろという意見もありますが、ここまで書いてしまったからには後に引けない

お前のオナニーをみているぞ

また別の平野作品を読んだ。「分人主義」なる思想を明確に意識して書かれているというが、それをぼくは感じることはできても語るを得ないので、置いといて自分勝手な文脈で思いつきを書く。相変わらず鋭くみずみずしい描写で、「あなた、実は登場人物でしょ! 出会ってるでしょ!!」と言いたくなるようなリアリティを感じた。そして、こんなところにまで文学のメスが入っているのかと思うと、少し後ろめたいような感覚におそわれた。

 

『顔のない裸体たち』

 

とはいえ、自分が体験したことは、だいたいこれまでに他の誰かによっても体験されていて、観察されていて、描写されているという考えを持たなかったわけではない。自分だけが世界や歴史から切り離された、唯一無二の独自な存在であるという自惚れは、とうに独りよがりな誤解にすぎないと退けられている。中学の頃にハブられたころの話と関連していることだが、思い出すたびほろ苦い大人の味がする。

 

話が逸れたが、そうではなくて、「ネットの変態ユーザーの精神にハックしてるんじゃないか」と思わせるような生き生きとした筆運びが、残忍なほどによく切れるということである*1

 

しかし、インターネットも深いところまでだいぶん光が当たってきているんだなと思うと、感慨深さと空恐ろしさとが渾然として感ぜられる。ツイッターの裏(エロ)アカウントはすでに見られていて、光を当てられている。そしてそれらは必ずしも閉鎖空間での自慰に供されるのみならず、小説やエッセイの種として作家たちに取り込まれて、暴かれているのだということを意識せずにはいられない。クリンジーである。

 

観察されているという生々しい感覚はあらゆる側面に広がる。恋愛工学も、承認欲求の権化も、ああ、もしかしてぼくのPCジャンキー生活もだろうか。九分九厘そんなわけはないのだが、そう考えるとなぜかむしろゾクゾクするような気もする。思い返せば、小中を思い出しても、生徒会などを引き受けて割と楽しんでいたような覚えがある。

 

他人の視線というものを集めたり集めなかったりした経験を総合すると、ぼくは「辺りを照らすサーチライトには怯え、自分めがけて直射するサーチライトには大胆になる」ようなところがあるんだろうなあ。

 

 

 

各位におかれましては、インターネットの利用の仕方には気をつけてください。お天道様も仏様も見ています。さらに悪いことには文筆家も、警察も。しかし、その視線をすら楽しむ変態には、ぼくも一目置きます。一億総監視を手玉にとる度胸と感性は、また面白い素材になるのかも知れませんね。*2

*1:1文で書けるなら長々とした自分語りは要らんかったんちゃうかという意見もあります

*2:何を書くにしても自分の経験に引き寄せてしか書けないことをこの頃口惜しく思う

禁を破る

一月物語を読みました。
結局、おのがため敷いた禁を自ら破ってしまうことと相成りました。
これまた激烈な体験になりましたが、もう愚にもつかぬことを書くことはよします。
そしてくどくどと反芻するのもやめます。
その代わり、次は森鷗外に進んでみようと思います。
三島由紀夫はまだ読んだことがなく、平野さんが強く影響を受けた作家だということと、大変な事件を起こすほどに壮絶な覚悟を決めることができてしまう危うさとをあわせ考えて、森鷗外の次にくるのがよいと思いました。

 


どうも、この頃心が落ち着かない。一種の躁状態というか、色々が病的に結合しあうような、そういう状態が続く。はじめは面白がっていたが、あんまり興奮しすぎていつも疲れてばかりいると、何か社会生活を困難にする兆しを見るようで、それが不安の芽だといえば不安の芽ではある。当座は、自分の中に宇宙的視点を取り入れて、「自分のひとりやふたり、気が触れたって地球は回る」と思ってやり過ごすことにする。

読書妄想文――「日蝕」(平野啓一郎)を読んで (後編)

 

(前編をうけて続く)

 

興奮冷めやらぬままに書き連ねたら長くなったので、前後編と分け、少し日を置いて投稿しようかとも考えたが、もったいぶるほどのものでもないと思い直して、ここで上げてしまうことにする。

 

読書妄想文――「日蝕」(平野啓一郎)を読んで (前編) - The Loving Dead

 

 

結局、これをきっかけにぼくは何かを形にできるかというと、それは難しいということになるのだが、当初の「学生らしい文章を書くためのヒントに」という目論見は、筆舌に尽くしがたい読後感をもってもはや一切重要でなくなった。時間をかけて、正しい方向で努力を重ね、経験を積み上げることこそが、到達点の高さを決定する主たる因子であるという、ごくあたりまえの事実をふと思い出したからだ*1。せっかくなので、ベテラン名文家から新進気鋭の若手作家へのメッセージ、夏目漱石芥川龍之介久米正雄宛書簡でも引いておこう。

 

あせつては不可せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。决して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て來ます。さうして吾々を惱ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。

夏目漱石の手紙(芥川龍之介・久米正雄あて)

 

明治文学によくある、知的探究心の熱を帯びた筆致は、やはり読んで追うに興味と憧憬とをかきたてるものがある。博識に支えられた思索の漂う様を詳らかに記述することが、衒学に陥るを免れるのは、そこに作者の「そう記述されねば嘘になる」という確信と情熱と誠実さが宿っているからに他ならない*2

 

自身を顧みると、そんな「ぼくの心のうちに表現されるのを待っているものたちは、このように書かれなければ本当じゃないんだ」と信じきって書く感覚はかねてから漠然ともっていた。それがブログでエゴに任せて書き散らすことを続けるうちに、ますます強く感じられるようになりつつある。熱弁を振るう際の鼻息の荒さに普段は自覚しているものの、一旦そこへはまってしまうと、そのような些事を気にする余裕すら食い尽くされてしまっている*3

 

さて、「日蝕」を読んで得た妄想、もとい感想は以上だが、なぜ「一月物語」に入らないのか。なんのことはない、勉強しなくてはいけないからだ。そもそも、この休暇は本業をサボりすぎたために溜まりに溜まった負債を帳消しにするのに充てられるべき期間であった。「日蝕」へののめり込み方を考えると、このまま「一月物語」に進む選択肢は、明確に誤りとわかる。この本を座右に残すか、それとも他所へ遣ってしまうか、というところから検討したいくらいだ。

 

ただ、そこまでしはじめると「デジタルデトックスの次はリテラチャーデトックスか」と笑われ、またぼくはそれに応えて「依存の多い生涯を送ってきました」とおどけてみせることになり、事態はいよいよ手の施しようがなくなる*4

 

したがって、ぼくは12時間の空きを文芸作品によって埋める試みは失敗に終わったと結論する。余暇のための活動はもっと気楽にできることでないと不可せんね。

 

scribbling.hatenablog.com

*1:いまとなっては浅はかだったが、正直なところ、「日蝕」には、大衆文学とまでは言わないものの、もっと口語に近い調子で「学生たちの織りなす奇怪な物語」のようなものを期待していた。そこで構成や言い回しについてのアイデアなどをちょっとばかり拝借すれば「もしかして自分にも」などと夢見たりしたのだった

*2:断定的に書いたが、これはぼくがそう書きたかった、いや、書かねばならなかったからである。無論、いくら文豪とてその前提は一介の社会人として現実生活に追われる存在であり、期限や編集者に急き立てられる中で書いた作品の中には、一文筆家として忸怩たる思いを抱きながら、妥協せざるを得なかったものもしばしばあったことだろう

*3:平素よりぼくと関わりを持つ各位には、この点においてしばしば申し訳なく思っております。やかましくして、すみません

*4:余談だが、作者の平野氏は少年時代、太宰治を嫌っていたという。太宰作品の主人公が共通してもつ卑近さや、いわば「自虐風自慢」的な態度が肌に合わなかったらしい(平野啓一郎 vol 1. 三島由紀夫から広がっていった文学体験|プロフェッショナルの本棚|ホンシェルジュ|cakes(ケイクス))