6月に入って、少し気温が下がったところで油断して風邪を引きかけた。冬用の厚手の羽毛布団をクリーニングに出して、夏用の薄い掛け布団にかえたところ、思いの外夜の冷え込みでのどがいがっぽくなった。熱が出るか出ないかの瀬戸際で何とか菌を追放しおおせたようだが、この多忙な時期に体調不良はまったく御免被りたい。

 

内面がぐちゃぐちゃした状態で困っている。うまく整理がつかない。うまく整理がついていない状態を恥ずかしく思ってしまう。自分でやろうとすると、不可能ではないにせよ、かなり労力がかかる。そもそも整理すべき物事があるのかも定かではない。単に気分の問題と言ってもよい。問題だらけの人生だ。問題を問題と認めながら引き受けてくれる先もないように錯覚してしまう。なぜブログを更新しようとしているのかもわからない。またのどがあれてきたような気がする。今日で尽きる命と思ってすべてを諦めて眠りにつけば、明日は回復しているだろう。

正当に評価されたいわけのひとつ

北朝鮮の対外情勢が緊張を増す一方、モランボン楽団がまた新曲を発表したようでNK-POPファンとして世間をはばかりながらよろこんでいる。これまで音楽中心で見てきたが、政治方面の知識もある程度は持っておいたほうがよいような気がしているので、銀行口座の現状を直視しながら機をうかがっていくつか新書でも買ってみようと思う。

 

勉強は相変わらずのろのろとしか進まない。研究者になるわけではないので、それを目指している人たちと同じ目標と気概を持つことを自分に強いることもない……と言い聞かせて、自分の理解と楽しさを大切にしたいという思いをなんとか持とうとしてきた。

 

ところで自分の理解と楽しさとは何なのか。数学をやっていて、自分が何を楽しいと感じているものの正体とは何なのか。「正体」というといかにも過剰に一元的な表現で、あまり自分の肌に合わないので、メカニズム、事情くらいが妥当か。とにかく、自分の心が、脳が、どう動いているのかが気になる。あるいは、英語や語学をやっているとき、ぼくはどう感じているのか……。こういうことがわかれば、自分のとるべき道というのがだんだんと決まってくるのではないかと思う。

 

しかし、自分が物事にたいしてどういう態度を精確に知るのは、やはり難しい仕事であるように感じる。そこで「第三者の正当な評価」というのが強力な手がかりになる。「お前はこういうところあるよな」という断片的な客観情報を蓄積、総合するうちに、自分の適性するものの全貌が見えてくるものではないかと思っている。

 

それが「正当に評価されたい」と思っている背景のひとつである。

 

頭がぼーーーっとしてるので、前回同様。勢いだけで書いて、それで、終わり。

正当に評価されたい

金曜日をピークに忙しさが少し減った。昨日と今日のこの後には短時間のシフトをこなす。

 

このごろ自分は正当に評価されることを欲求しているのではないかと思うようになりつつある。評価といっても手放しでほめられたいわけではなく、善し悪しにとらわれずぼくの特徴を捉えて、それを言葉で返してほしいということだ。これは「ただほめる」「ただけなす」よりもずっと労力を要する行為だろう。だから、それを楽しんでやってもらえれば最高だと思う。

 

「お前ってこういうとこあるよな」と言われたい。

 

その指摘が、たとえぼくから見て多少外れていたとしても、まずはそうやってぼくをきちんと見ようとしてくれていることをありがたく思う。その「一見外れた指摘」も、誠実な分析によって導出されたものであれば、時間をかけて味わいたいと思う。

 

指摘が自分が持っている自己像に当てはまっていれば、その自己像は他者に裏付けてもらえたことになる。それを手がかりにして「自分はこういう人間なんだ」というアイデンティティをより堅固にすることができる。

 

指摘が自分の予想の地平を超えて投げかけられたものであれば、ぼくは全く新たな知見を得られたことになる。それは視界がぐっと広がり、新しい可能性が見えてくることを意味する。

 

今日はもう就寝すべき時間を疾うに過ぎているので、文章も全く練ることなしに、勢いで書いたまま投下する。このごろ気になっているトピックなので、忙しいなりに合間を縫って、もう少し時間をかけて考えたい。

忙しい

いまバイトからのサークル活動が終わり、帰りの電車の中でこれを書き始めている。いま大学生活4年間で最も忙しい。明日はサークルに加えて院試ゼミがあり、なおかつ明後日のゼミに向けて予習をする必要がある。木曜日は授業と、金曜日のサークル活動で発表をするのでその準備。金曜日はいまふれたサークルの発表。本来は金曜日に院試ゼミがあったが、メンバーの日程調整が難しいため、しばらく振り替えながら様子見。土曜日、日曜日はバイト……。

 

本当に忙しい。もしこのペースが続けばいずれパンクしてしまうのではないかという恐れもなくはない。ところが悪いことばかりではなく、忙しいと必要に迫られて手抜きや引き際を覚えるようになる。自然、効率化を志向し、費用対効果を追求する。すると、先生や先輩に質問する勇気が俄然出てくるし、シフトの変更を淡々と依頼できるようになってくる。「独力でやりきることもできなくはないが、そうすると時間がかかるもの」をより効率よくこなせる他人に投げよう発想へと移行する。これまでひとりで抱え込んで消化不良を起こしていたことに助けを求められるようになる。追い詰められれば裸にだってなる。

 

それはさすがに勘弁してくれという要望があったのでやめときます。

なにもわかっていない

院試ゼミなるものをやった。要するに自分はなにもわかっていない、なにも覚えていないということがわかり、その事実を源泉とする焦りの気持ちがでた。普段から何かと焦りはあって、なかなか心に余裕がないのだが、その焦りの度合いが増した。いよいよ退っ引きならないところまできた。ただ、いっしょにやってくれる仲間がいれば、少しでもその助けになりたいとか、みんなで頑張るんだという気持ちも沸き起こってきたりして、それはもはや孤独な闘いではなくなる。院試突破という遠い1点と、いま現在の点とを結んだ直線上に、できる限り各回でメンバーに迷惑をかけないよう努めるとか、いい感じの解法を見せてみるとか、下手な解法を直してもらうとか、そういう具体的な課題が立ち上がってくる。うまくいかなかったら……まあそれはあまり考えないようにする。やっていくしかない。

 

孤軍奮闘、四面楚歌の心境でやっていくことはもう疲れた。脳を社会的に使ってやらないと、脳の全体が機能不全に陥る。

 

いずれにせよ期間の定まった闘いであるというのが救いか。解法は思いつかず、終わったら免許取ろうとか、旅行に行こうとか、慰安の方法ばかり思いつく。のんきなものですね。

 

恋人とは一体いかにして得るものなのか、改めて問うてみると結構難しい。恋愛にしてみても、なにもわかっていないことがわかる。ぼくは恋愛対象とて所詮人間、されど人間と思って、友達を作るようにして作るというものだと心得ているが、人によって、また求めるものによって、戦略は随分違ってくるので、まずはなにが欲しいのかをよく分析しながら動いてみることなのかなあと無責任に思う。

 

昼からやってる居酒屋でそう語ったら「ムカつく」「お前は殴りたい顔をしている」と言われてボコボコにどつき倒されて、串カツのソースに3回くらい頭を突っ込んでいました。二度漬け禁止やのに。

 

そこやないやろという意見もあります。

発表をした

ようやく初めての発表をした。発表をしたといって、終えたわけではない。まだ残っている。目安として1回につき10ページほど進むようにと言われていたが、その半分に達したか達しなかったか……というところで中断されている。何がさほどに時間を食ったかというと、表の形でワーッと列挙された諸性質の証明である。証明のための道具立てが本文中であまりなされておらず、また自ら創出するだけの力量も持ち合わせていなかったので、不統一な拙いやり方でひとつひとつ丹念に示すほかなかったのだ。2時間でA4用紙表裏10ページ強をやれるわけがない。


もっと短時間のうちに済ませてしまえそうな上手なやり方があろうということが漠然と感じられる。かくも複雑怪奇な議論などはまったく不要であるに違いない。おそらく賢者の通るべき道は存在する。どうせ発表するならば、同じ他人の時間をいただくのであれば、ぼくもその道を拝借して効率的にやりたい。どこかにありそうなのに、どこか、どこかに王道が……。


そういう思いを抱えたままアホの道を奔走せねばならぬこと。クリーナーとペンとをしきりに持ち替え、そのたびに紙の束をばさばさ床に落とし、口内は乾き、心臓は高鳴り、頭はますます混乱し、やがて白板の前で狂人の真似を披露せねばならぬこと。それが、ぼくが直視せねばならない現実というものであることを知った。


ただ、今回の終わりに先生から「細かいところまでよく準備してくれました。すばらしい」と、またメンバーのひとりから「わかりやすかった」と、ほめて(i.e. フォローして)いただいたのが救いとなった。やっぱりぼくは自分で自分を追い詰めるタイプの人間で、時折こうしてひと言ふた言ほめてもらうことで支えられながら生きていかなければならないのだろう。ぼくは孤高の賢者にはなれない。人の群れのなかで、支えられ、支えかえして生きていくしかない。


たかが1回の発表で何悟ってんねんという意見もあります。

はじめてのサークル本活動

サークルというものにはじめて所属してみた。文化系のサークルである。今日が新歓ではない初練習日だった。練習後の食事まで楽しかった。明るくて愉快な人たちがたくさんいて、その場にいて話を聞いているだけでこちらまで感化されてまっすぐになっていくようだった。そして男子校というのはやはり興味深い環境だと改めて感心する。特になりふり構わず、多少危ない橋でも躊躇なく渡り、場を盛り上げていく方向へひたすら加勢していく姿勢は財産だとさえ思う。彼らの嘆ずるところの犠牲となったティーンエイジは必ずや何かしらの形でちゃんと結実しているのだと励ましたくなる。

 

話題はぼくの経歴にも及んだ。ぼく自身もどこかのタイミングで話して楽になりたかったというのもあったと思う。聞かれればよろこんで答えるつもりだった。ところがいざその話題になってみると表現がスライムのごとくまとまらない。「メンヘラ」「共依存」「中退」と乱雑にテクニカルタームパワーワードをちりばめて、そういう風変わりとも病気ともつかない世界もある、とすまし顔で言い切ってしまうのもひとつの手だし、実際に場の性質と聴衆の顔ぶれを見ればそれも十分に解たりえたと思う。会って間もない、身の上もろくに知らぬ複数人を前にして、突如長々と自分語りをぶち上げるだけの勇気や技術は、どのみち持ち合わせていなかった。

 

ここいらでもう一度、今度はぼくと関わりを持ってくれている人たちのために、過去を振り返っておく必要を感じた。この妙ちきりんな人生が、誰かのアミューズメントとなれば、過去のぼくは十分に報われるだろう。

 

時系列にそって書き並べる - The Loving Dead

 

 

ふたりのうちどちらかがぼくに気があるのかなと思っていたら、案の定Mに告白された。 断る理由が特になかったので付き合うことにした。

時系列にそって書き並べる - The Loving Dead

 


断る理由がないから付き合ったというのは、間違ってはいないが、いささかドライすぎる言い回しだ。照れが入っている。実際は大いなる愛を告白されていた。そこには不幸を補う役目を要求する兆しはなく、ただ素朴で純然たる愛情をのみ感じた。ぼく自身これまでの異性へのアプローチは大抵失敗していたこともあり、そこまでの愛情を告白されて、胸を打たれずにはいられなかった。手紙、メール、おまけにバレンタインの生キャラメルという形で裏付けられた熱意をどうして無視することができただろうか。

 

 

冬休み1週間前にいよいよぼくのほうが爆発してしまった。 夜の12時を過ぎても家に帰らないので、親がぼくの携帯に電話を入れてきた。 彼女を放って帰れないのと親から家に帰るよう促されるのとの板挟みにぼくはパニックになり、過呼吸を起こした。

時系列にそって書き並べる - The Loving Dead

 

 

冬休み前の爆発について、パニックを起こしていたのは事実だが、本当は少し演技も入っていて、過呼吸*1は半分意図的に起こした覚えがある。無闇に速く浅く呼吸をすれば意識がカフェインだかアルコールだかを過剰摂取したときのように朦朧とした状態になるので、あとはそれを口実にぐでんとしていればよい。言ってみれば、その場から逃げ出すためにそういう状況をあえて作り出したのであって、いまだにどこか恥じているような節がある。

 

修正すべき点といえばこれくらいで、あとはまあぼくの主観視点での物語としては筋をとらえられている。全く別の話をしているところへ出しゃばってまでする話ではないが、無理に覆い隠してしまうのも気力を要する上に、場に対する不自然を免れないので、なるべく不愉快に聞こえないような工夫だけ加えて話したい(やはり女性には特に気を遣ってしまう)。

 

*1:過呼吸は身体的に酸素を必要とする激しい運動の後に起こるもので、精神的な要因のものは過換気症候群というらしい