性において精進鍛錬せねばならない

ぼくは、性においては人一倍傷を負ってきたと考えている、そのような節がある。性についての傷跡は敏感で、そこへ苦情が入ったりすると、それがたとい冗談めかしたものであったとしても、容易に心神を摩耗するというような心理上の弱点をなしている。苦情が切実なものであれば、ぼくは真正面からそれに向き合う用意がある。むしろたわいない冗談めかした照れ隠し(たとえ親密な間柄であると熟知している相手からの、愛情を含んだものであったとしても!!)に対して、本来自らに期待してよいはずの寛容性が機能しない。直ちに擦り傷を、神経の多く通っている部位に負う。

 

しかし、これはぼくの克服すべき課題、破るべき殻であると信ず。たわいない冗談めかしたからかいに逐一心を痛めていては、この先生きのこれない。

 

いかに克服するか。それは人間において、性に関する経験を積むのが最も有効であろうと思う。安直に性行為を重ねるという意味ではない。広く一般に性に関する、打ち解けた対話、体験談の交換、所信表明、そういうものをなるべく多くの、各種各様の人たちと重ねていくこと。

 

先に、性的に「人一倍傷を負ってきたと考えている、そのような"節がある"」と述べた。要するに、経験の不足、見聞の狭さに由来する視野狭窄を疑っているのである。独りよがりの、悲劇のヒロイン(ヒーロー?)の役回りから脱却できていないだけなのではないか、と。

 

ぼくはまだまだ若輩者に過ぎない。かつて年齢不相応の受難者たる立場にあったとしても、それをもって人生のあらゆる艱難辛苦を知り尽くしたことにはなるはずがない。過去の難儀をもって、「ぼくはこんなに苦しんだのだから」と他者に不当な斟酌やら配慮やらを求めることなど、言語道断。

ここ1週間ほどはやや忙しい日が続いており、今日ようやくまともな休息日を得て家でゆっくりしている。この後また用事があるので出かけることになっている。具体的に何をしていたか、少しく書き連ねてみる。強いてくだくだしく文章の体をとったところでむなしいので、いっそ箇条書きで済ませてしまうことにする。

 

教習。技能は第1段階の半分をちょっと過ぎたところ。学科はあと3コマ程度だが、予定より若干後れている。本来11月末までにすべて取り終えているはずだが、2回ほど予定を忘れてしまい、修了は12月頭に持ち越しとなる見込み。ラインで「今日練習○○でやります」という連絡が流れてくると、脳裏であたためていた学科の履修予定が吹き飛んで、つい練習の方へ流れていってしまうことがよくある。こどもか。

 

ゼミ。院試ゼミの延長線上にあった可換代数ゼミに加え、新たに代数的整数論の定期集会を発足した。自分のキャパシティをこえていろいろなことに手を出しているではないかというおそれは内心あるが、嵐の中に身を置くのはよい修行になるだろうと思ってよしとしている。とりあえず2回ほどやったが、噂のデデキント環とやらが姿を現したところでわくわくしている。可換代数の方では息抜きに圏論を追加して、可換代数に飽きたら圏論という風にして輪読をすすめている。どちらもガチガチに予習しなければならないような肩肘張ったゼミでないのがありがたい。

 

卒論の手伝い。ひたすら文字興しをやっていた。我ながらやはり性根は文系であるらしく、文章を煮詰めたり整えたりするのは楽しい。提出が2週間後とのことで、もしかすると新たな依頼が舞い込んでくるかもしれない。

 

このところ、信頼を置くとか自分をゆだねるとか、そのような標語がしばしば脳の中心部を占めていた。自分はまだうちにひきこもっている、人を信頼できていない、自分のからを破れていない、どうにかしないといけない、と。ところが、この信頼とか委ねるという煮詰まった重苦しい言葉をわざわざ好んで用いていることが事態を無用にややこしくしている要因になっているような気がしている。おそらく、この問題はもっと平易な言い回しで「上下関係において壁を作ってしまう」と表現すべきだ。実際に先生や先輩と接する現場で起こっていることを振り返ってみても、信頼という言葉は役不足の感がある。信頼というと個人的における理由やおけない理由があったりするものだが、現場でぼくが押し黙ってしまうのは、そのような複雑な事情を比較検討した結果としての一大決心などではなく、単にもう一歩が踏み切れず引っ込んでしまっているという現象があるに過ぎない。引っ込んでしまうのに理由はなくて、ただもう傾向から、癖から、不慣れからそうなってしまっているだけである。

 

上下関係はなるほど面倒かもわからないが、周りを見渡すと大抵みんな気楽にやっているのだから、自分もそうしてはいけないきまりはなかろう。となればその部分で神経質になりすぎず、リラックスして関われるように意識していけばそれでよいのではないかと、今日のところはなぜかしらたいそう楽観的な心持ちでいるわけであります。

信頼して、素直になれば大丈夫、大丈夫であるはずなのに

久しぶりに発表で炎上した。それもぼくがぼく自身としていちばん許せない形の炎上だった。準備段階で(試みたが)理解しきれなかった箇所があるのをきちんと自覚し、そこを発表段階で指摘されたら「わかりませんでした」とすっかり白状する――これはまだよい。自覚があり、またそれを認める覚悟が決まっていれば、第一に、白板の前で思考を空回りさせる乾いた時間、誰にも幸せをもたらさない時間をとらずに済む。さらに先生やメンバーの助けを借りることによって、自分自身を成長させる機会にもなるからだ。しかし、理解の試みが中途半端であるために理解しきれておらず、かつ、その理解不足をその場のノリ(その場しのぎのごまかし)によって切り抜けてしまおうという企てが失敗した結果としての炎上について、ぼくはこれを潔しとしない。そして、ぼくは今日それを犯してしまったのだ。案の定、白板の前で思考停止し、自分を含めたみんなの時間を浪費してしまった。


「まあ、だいたいこんな感じでなんとかなるやろ」と高をくくって発表に臨んでしまったこともそうだが、それ以上に「ちゃんと考えられていませんでした」と理解の試みが中途半端であることを即座に認められなかったことを、忸怩とせず省みることができない。というのも、予習段階で何らかの油断、慢心があることを、少なくとも何となしに意識はしていたにも関わらず、指摘を受けた瞬間、往生際をわきまえず悪あがきをしてしまったということにほかならないからだ。


「予習段階の慢心を自覚しているのならば、指摘を受けた瞬間に覚悟を決して素直に助けを求めるべきである、というのは、たしかにその通りかも知れない。けれども、なんといっても悪あがきに走ってしまったのはとっさのことだったのだから、重く受け止める必要はないのではないか。もっと肩の力を抜いて、『次からは気をつけよう』でかまわないのではないか」という声も聞こえないでもない。しかし、ぼくはやはりこの「とっさ」の選択に、ぼく自身の、先生に対する信頼の不足が潜んでいるのを感じている。念のため断っておくと、この信頼の不足は当該先生に対してのみ抱いているものではない。先生は、本来、問題なく信頼に足る人物であると認識している。

 

人びとに対する信頼の不足――これが年来の悩みの種なのだ。人に甘えきれない、人に頼れない性質とも換言できるが、この性質がぼくを周囲の人たちから無理矢理引き離してしまうのだ。本来は大抵信頼に足る人たちなのに。少しくらいぼくが素を出したって、そのことだけで壊れてしまったり、あるいはぼくを異端者という烙印を押すような人なんかではないはずなのに。

 

ぼくはもっともっと人を信頼したい。でないとぼくは人を再び心から愛せるようにはなれない。

ぼくはもともと普段から自意識におぼれているというわけではないのだが、いかんせん、何かを自由に書くとなると、どうしても自分のことを書かずにはいられないように思う。いや、自分から離れたことを書くことができない。学校の課題として何について書けという指示が下れば、がんばってそれに沿うた形の文章を作ることはできる。けれども、何も言われていないのに、人の目に触れるところで自分以外のことについて熱心に書くことができるのか、はなはだあやしい。

 

国破れて山河ありだとか、智に働けば角が立つだとか、そんなものが書けるのであれば、書きたい。書いて堂々としていられるのならば、そうしていたい。「これはごく個人的なことだから」という言い訳が立つ範囲をはみ出て何かを書けないでいる自分がもどかしい。省みればぼくがものを書こうと思えるのも大抵夜中の前頭葉のはたらきが弱まりそうな時間帯ばかりだ。それが証拠に、酒が入っていると、なお筆は進む。

 

ああ、また全消ししようとしている。ここまで書いて、こんなしょうもない、やめたらこの文章、という気持ちがわき上がってきた。そうやって無に帰した時間が先月だけでもどれほどあったことか。

 

YouTubeの「わが民族同士」も消えてしまってからは、その空白を埋めるようにして淫夢やらクッキー☆シリーズやらゲーム実況やら、そのあたりの動画を視聴する癖がついてしまった。それはそれで一興ではある。ニコニコ特有の珍技術妙編集は、おもしろフラッシュ倉庫文化に通底する雰囲気を感じ、何となくほっとする。ほっとするけれども、やっぱり主体思想の代わりにはならないのだ……。

 

すっかりまとまらない文章になってしまった。また明日も教習がある。本当に運転できるようになるのか不安だ。

ブログを分けるかも知れない

このごろはこのブログが言葉遊びの冗談半分の日記、淡々とその日あったことを書くだけの記録のようになってしまっている。やっぱりぼくはこのブログのタイトルにあるような愛・死をはじめとした、いろいろの内的な経験を整理して、意味を求めるようなものにしたい。そのために日記用のブログを新しく作って、役割分担させることも検討している。一応「内省」などといったタグ付けを行ってはいるけれども、それでも同一ブログ上でごちゃごちゃとエントリをまぜてしまうのは便利ではない。不純物の割合の方が多いとなおさらである。

 

ただ、移行作業をどうやるかわかっていない(そもそも無料版のはてなブログで可能なのかどうかがわかっていない)ので、もしかすると書いてしまった分についてはそのままにしておいて、次のエントリから、という形をとるかも知れない。

 

以上。

MT技能教習と関西おばちゃん教官の豪放な励まし

明日、というよりも今日この後2回目の技能教習がある。あれは見た目以上にデリケートで難しい。クラッチの操作が半クラやらなんやらでトリッキーであることは承知していたが、いやいや、それ以前にアクセルの踏み方からして繊細さを要求される。ゴーカート気分でパシーンとアクセルを踏むと攻撃の勢いでエンジンが回る。ヴーン!! 発進時は1速に入れて1500rpmから2000rpmを維持して半クラッチを作るように、と指示されるが、ここからすでにちょっとしたゲームである。

 

それでも1回目にしては悪くないできだったのか、ニコニコと愛想のいい関西おばちゃん教官は「うまいやん! これなら女の子乗せても安心やな」「やっぱマリオカートも得意やろ」とほめてくれた。もちろん客観的に見れば、全体としてぎこちない操作だったことは、ぼく自身が自覚している。停止・発進にいちいち不穏な加速度Gを感じたし、一度は停止時にクラッチを踏み忘れてエンストを起こした。それでも細かいことを抜きにして、とりあえず目標自体の達成をもって、威勢よく「うまい」とほめて励ましてもらえたことがまずうれしかったし、加えて、おばちゃん先生がわざわざ照準を平成に合わせて話をしてくれていることが余分にうれしかった。ぼくはもう照れてしまって「ありがとうございます」とうつむいて笑顔をかみ殺して返事するのが精一杯だった。

 

できることなら、伝えたかった。教えてあげたかった。

 

マリオカートはオートマですけど」