最近は至極内容の浅い、自分で読んでいて薄ら寒いものしか書けていなかった。気づいたら世界の周縁部にぽつねんと座っていて、何事かなさねばならないとか、人生を構築し直さなければならないとか、そういった義務感とも使命感とも自我の欲求ともつかない(あるいはこれらはあらゆる精神現象の責任をエゴに押しやるいまの世の中においてはすべて同一視されるであろうものたちだが)ものをごちゃ混ぜにして放置してきた結果だ。完全に忘れていて放置していたのでも、わざと先延ばしにしたのでもなくて、何とかけりをつけよう、改善しようと神経は忙しくはたらいていたつもりが、知らない間に問題の核心を迂回するためのむなしい取り繕いにすり替わっていたことに、後から気づくという感じ。

 

取り繕いの行為そのものによって自分自身に対して「自分はなんとか状況を打開しようとがんばっているから」と不実の言い訳をしていたようにも思われる。その不実とて明瞭に悪意を以て企図した不実ではなく、ただほかになすすべの見当たらないままになし崩しに陥った状況をうけいれるための、事後承諾の方便として用いた不実なのだろう。確かに葛藤はある。あるにはあるが、自分で自分の葛藤を追跡することができない。何と何との間で揺れていたのかわからなくなる。しまいに疲れて自分のアホさ加減に嫌気がさす。


ガソリンを食ってエンジンを回そうと努めたし一応回ってはいるのだが、そのエンジンはどこへも動力を伝えていない。ヴンヴンと回って、無意味に煙を排出して、おしまい。人生の何の役にも立っていないのをうすうすわかっていながら、その考えを追い出すためにいっそう無闇にエンジンを回す。回す。回す。書く。書く。書く。そうして目の端で世界がなんとなく動いていくのが見えている。錯覚して自分も何かしら意味のあることをやっているような気分になる。親が仕事をしている横で物心のついていない子どもがそのまねごとをやってよろこんでいるのと選ぶところはない。いや、子どものまねごとは真に無邪気で当人がよろこんでやっていることだから、意味に満ちあふれている(いつか分別が芽生えたときに役に立たないことを悟って多少落胆するかも知れないが)。

 

何もかもうまくまとめようとしてしまってるやろ、君。まとまった結果や意味を性急に求めてしまっている。とりあえずやってみて、まとまらんかったらまとまらんかったわワハハ次行こでええやないか。何をそんなにあわててるんや。誰も見ていないのに取り繕おうとするのはなんでや。そんなに人生がうまくいっていないのがこわいんか。自分でうまくいっていないととりあえず認めてしまって、しかるのちにしかるべき善後処置を施そうという気概はないんか。そんな精神的に老け込んだと決めつけてしまってええんか、なあ、後何年生きんなんと思っとるんや。そんな狭い部屋の隅に縮こまって、何も苦しそうに見えない世間と外面だけ合わせててもどうしようもないからな。

 

ああ、やっぱり心の中で定まっていないことを書き出すのは、私においてすら心許ない心地がする。ましてブログで書いてさらしておくのはもっと心がぐらつく。以前自分でかいた絵や文章などと直面するなら、まず自分ひとりで静かに向き合わなければならない。一目見たときに反射的に赤面して目をそらしたくなるのをこらえていると、だんだんと当時のことを思い出してくる。当時それをどれだけがんばってかいたか、あのときの自分は真剣そのものだった。後から汚点扱いされるなどとは知らずに打ち込んでいたではないか。

 

もしかすると汚点扱いされるかも知れないという不安をついにはねつけた上でそれをやっていたかも知れない。このときにこんな風に過ごしていた自分を恥だと思わないだけの良心をどうかそなえていてほしい、こんないまの自分を肯定してくれるのに十分な器を未来の自分にはどうか持っていてほしい。つまり、未来の自分が人生という大きな枠組みにおいて失敗していてほしくない。すりきれてくたくたになって、現在に至った原因である過去を拒絶しなくてはならないような、憐れな人生を送っていてほしくない。そんなメッセージまでもが連想される。

 

いや、ごめんて。なんとかする。なんとかするわ。ちゃんとまっとうで充実した人生を送るって。そんな時空を超えて膨らんだ期待をどばーっとかけんといて。

 

そう言いながら自分からかかりにいってるやないかという分析もある。そうやって自分から苦しみに突っ込んでいくのが好きやな、昔っから。