1月下旬から2月第1週までゼミの仕上げにあくせくしたり、名古屋やら東京やらへ飛び回ってはなはだ忙しかった。そのつけがいよいよ回ってきて、東京から帰ってくる日にインフルエンザを発症した。B型だった。帰宅してから1日待って病院に行った。特効薬を吸入して熱は割とすぐにとれたが、のどの痛みが火でも噴いたのかというほどひどかった。痛さのために夜中に目が覚め、耐えきれず、毎食後に飲むべき痛み止めを追加でのんでごまかしたほどだった。いまは咳のしすぎで腹筋が痛いほかはありきたりなレベルの苦痛ですんでいる。

 

ブログを更新していない間にふと思い立った。目の前の苦痛の由来をもとめて過去に遡及するのはだいぶん控えたほうがよいのではないか。問題は一過性・一時的のものではないという重みがつくため、他人の同情を買い支援を得るには確かに役に立つことしばしばではある。が、問題解決のためには自分でつけたこの重みがまさに足かせになる。絡まった糸のうちいま重要な1本に集中すればよいのに、全体をほどくべしという問題にすり替えてしまってどつぼにはまるような感覚とでもいえばいいだろうか。

 

さらにいうと、大抵その問題とやらが本当に問題なのかもあやしい。確かにある種の傾向が認められるといえば認められるだろうし、その根源を追求すれば好むと好まざるとに関わらず、どうせさんざ繰り返し持ち出してきた「わかりやすい」着地点しか見いだせない。それで一見取るに足らない痛みをいわば歴史によって権威づけて大げさに騒ぎ立ててしまうのだが、ある種の楽しいことの最中もしくはその後しばらくはだいたいさっぱり忘れられていられるし、思い出しても何の痛痒も感じない。

 

裏返すとこれは楽しいことが切れるとだいたいぶり返してくるということを意味するのだが、これをどうとらえるべきかは人生をどういうものだとみなすかという価値判断の話に近づいてくる。つまり人生とはショートタームな事柄の蓄積(消化)であって、その場その場をどうしのぐかという問題にほかならないと思うか、はたまたストロングゼロなどで毎日をごまかしながら生きるのではなく、むしろ長い目で見て後悔のない一生をつくりあげるべきだと思うか、みたいな。これはまあ居酒屋で友達とでもやればよい話。とりあえず自分で考えておけばよいのは、そういう痛みを忘れさせてくれる楽しみをどうやって見つけるか、その幅を広げるか、その質を高めるか。