「共依存」を脱いでゆく

きっかけがあって、ある人にぼくがこれまで高校を中退してからどういう道をたどってきたのかを話した。何度もしているはずなのだけれども、いまだに上手にできない。正確には、なぜ中退に至ったかを言葉にするのがなかなか難しい。「ある女の子と付き合っていて、その子が情緒不安定だった"ので"何とか助けてあげようとしてもがきにもがいて、結局ままならず、こちらが先に疲弊してしまった」と、相手の関心のほどをうかがいながらおおざっぱな説明を試みる。試みながら、心の中ではそんな単純な因果関係では正しくとらえられていない流れというものがあると思って、強調の引用符をつけている。もっとも、それで今後の関係性に影響するような致命的な誤解が生まれることはほとんどなく、大抵は「そんなものか」と納得してもらえるので、対外的には問題ない。要するに、ごく私的な興味によってもっとしっくりくる言葉選びをしたいと考えている。

 

過去の出来事はもちろん変えられないが、過去の出来事を表現する言葉は変わりうるし、また変わることに意味があると思っている。それは振り向いて見る風景がいかようにうつっているのか、そしてそれをいかに考えとらえようとしているのかという、いまのわたしのありかたを明らかにする。過去の出来事といまの感覚とをシームレスにつなぐ言葉を探すことで、ぼくは自分自身を理解したい。

 

確かに、「共依存」はかつてぼくの中でよく活躍してくれた用語だった。この用語を知って自分に当てはめてみることで、「あの人とぼくはそういう危険な結びつき方をしやすい傾向のある組み合わせだったのだ」と苦しみの根源を外在化することができ、大いにメンタルヘルスの改善に役立った。しかし、相当に回復してきたいまとなってはかえって「自己の価値を低く見る」とか「相手をコントロールしたがる」などという記述の重力圏内で自分自身を規定する違和感のほうがまさるようになっている。自らすすんで着た「共依存」の病衣がすっかり窮屈になってしまった。

 

共依存」に頼ることなしに自分の人生の手綱を握り直したい。きっとぼくは未熟ながらも考えを最大限にはたらかせて行動していた。年相応の信念と理性とがあった。それが結果的に裏目に出てしまったが、それは直ちに「共依存的性質」を有するがために破滅すべくして破滅したことを意味するわけではない。ぼくはこの経験を不治の病ではなく、教訓として未来に活かすべき、また人間としての奥行きを増すような、そういう失敗として自分のものにしたい。

 

 

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