「正しい人」との再会

レ・ミゼラブルを読みかえしている。まだはじまって50ページにも到達しないが、早速熱いものがこみ上げ、こらえきれなくなった。ミリエル司教のところでなみだがぽろぽろとこぼれた。どうもこれまでの人生で苦痛のうちに手放してそのまま投げやりになってしまっていたものを再び見いだしたような心持ちだ。

 

「地上に無知と悲惨がある以上、本書のような性質の本も無益ではあるまい」

 

ぼくはこの本で育った父のもとで育った。

 

自分がよい家族に恵まれて幸福を享受した分、不幸な人、特に家族のために苦しんでいる人を愛して還元しなければならない。愛を知らず、それを求める者があれば、その大切さを知っている者が力の及ぶ限り実践によって示さなければならない。例の人との関係がはじまってからそのような思いを固めていたことを思い出す。そのような覚悟の背景には、若者(中高生?)の覚悟の伴わない"恋愛"への意識もあった。そのような、いわば一見感情本位の恋愛が自分の感覚に合わないだけで、別段若者の恋愛を十把一絡げに軽蔑していたわけではないつもりだ(が、結局それは都合よく記憶を改竄しているだけかも知れないと留保はしておく。それに、当然といえば当然かも知れないが、愛着とか恋愛へのあこがれとか性欲とか、そういったものが全然なかったわけでもない)。

 

志は我ながら捨てたものではなかったが、結果としてうまくいかなかった。そうしてぼくはいわば個別主義に走って、「相手を見て振る舞い方を決めなければならない」「付き合うのは自分に合った人でよい」といったようなことを漠然と考えていたようだ。「愛だのなんだのは所詮理想に過ぎず、相手を見極めて、損得勘定をやって、ちゃんと持続可能である見通しを立ててから、慎重に慎重に交渉を進めていかなければ、到底現代の人間とはいわれない。しかるべくして醸成された信頼なしにおのれの身を切るのは愚の骨頂である」やや誇張気味の表現を使っているが、そういう態度でここ数年を過ごしてきたと振り返って思う。

 

現象レベルでは共依存のようにも見えただろう。そのことが余計に以前の自分のあり方を考えないよう意識から遠ざけてしまう要因になった。共依存と呼ばれるものが世の中*1でいかに悪者らしく描かれているかを見て、時代錯誤で、自己中心的で、理性の欠如した、ひとことで言えばダサいものなのだろうと認識したからだ。もちろん共依存の性質は多かれ少なかれほとんどの人が有しており、これがある場面では有用かつ重要であること、極端になって自他を苦しめるのが問題であることは専門的に扱っているサイトには必ず書いてあるから知っている。その上で自身を問題扱いすることで自分を慰めていたのだ。*2

 

ところがようやく最近になって、自分はもしかしたら必ずしもそこまで蔑むべき心性をもっていたわけではないのかもしれないという考えが起こってきた。つまり、共依存という言葉が自分にとって適切ではないかもしれないと思いはじめて、ひとつ呪縛が解けたとまではいわないが幾分緩みはした。*3

 

そうして、いまミリエル司教に再会した。彼は"Un juste"「正しい人」だ。これからジャン・ヴァルジャンという不幸のために悪意に蝕まれた男に会い、その悲惨な人生を劇的に変えてしまう。

 

ジャン・ヴァルジャンはその後も苦悩と葛藤を経験することになる。ぼくもまたそうである。

*1:ここではインターネットとアダルトチルドレン本人向けの本。なぜならインターネットや本以外で共依存をうんぬんしたり、関係しそうな人を実際にほとんど見たことがない

*2: ぼくの共依存体験について - The Loving Dead

*3: 「共依存」を脱いでゆく - The Loving Dead